テレビでやっていいこと・悪いこと—少しも話題にならなかった「おもいッきりテレビ」のやらせ告発(の予告編)- (松沢呉一)
古い原稿を循環しようと思い立ち、前置を書いていたらどんどん長くなってしまったので、独立させて予告編にしました。
テレビドラマがやっていいこと・悪いこと
銭湯と食い物屋以外でテレビを観ないので、どんなドラマかわからんですけど、このリテラの記事には注目しました。
2019年10月21日付「リテラ」より
「ネグる」って最近使わなくね? 「オルグる」と同じくらい使わない気が。ちょっと前に20代に「日和(ひよ)る」と言ったら通じませんでした。「日和る」って普通に使う言葉だと思ってましたが、学生運動用語だっけか。
それはともかく、ドラマを観てないし、モデルになったと「リテラ」が挙げている人物も知らないので、私には判断しにくいのですが、「リテラ」の記事に出ているように、NHKの倫理としては以下の説明をしているので問題なしということでしょう。
NHK「連続テレビ小説 スカーレット 番組紹介」より
「リテラ」によると、モデルは神山清子(こうやま きよこ)という人物。陶芸家であり、骨髄バンクの立ち上げに尽力。検索すると、「リテラ」に限らず、この人がモデルだと皆さん見ています。神山氏はその世界では知られる人である上に、彼女について書かれた本が複数あり、映画化もされています。どれも彼女の名前が明記されているのに、「スカーレット」がモデルはいないとしているのはいかにも不自然です。
本人の許可が得られず、やむなく伏せたのであればわかるのですが、陶芸指導としてクレジットに入っています。
こういう扱いになることは合意されているのでしょうから、NHKと神山氏との関係では問題はなく、その範囲では第三者がとやかく言うことではないですけど、テレビの前にいる人たちに向けては、「神山清子さんにうかがったお話をもとに脚本家が書き下ろしたオリジナル作品です」とするのがスジでしょう。なぜならそれが事実だろうからです。
しかも、脚本家はこれをノベライズして単行本にしています。うーん。
ライターの立場から言うと、ある人の話をなぞった内容の原稿を書いて、取材謝礼をたんまり払う代わりに、「そのことは内密に」とやって、外向きには「参照したものはありません。私のオリジナルです」とやることは、いかに本人が合意したのだとしても、やっていけいないとの感覚があるのですが、強く批判できることなのかどうかは私もわからない。
たとえばタレント本のゴーストライターは、タレント本人に話を聞いて、ネタを選択し、面白くふくらませるわけですが、核になるのはタレント自身の話です。多くの場合、話をまとめたライターにも著作権が発生しますから、なんらかのクレジットを入れた方が好ましいのではありますが、名前を表示するか否かはライターが決定してよく、その扱いに納得していれば問題ないように思います。
しかし、「スカーレット」の場合は逆転していて、評価されるべきなのは、第一にそのような生き方をしてきた本人です。物書きの能力も大いにそこに反映されるのは事実ですが、その人物がいなかったら書けなかった以上、二次的な役割でしかない。なのに、「私が全部考えた」と言い張っている。
そこがモヤモヤするところですけど、モデル本人がいいと言っているんだったら、いいような気もするしで、すっきりしない。
フィクションだったら何してもいいのだけれど…
モデルを明示しなかったのは、リテラが指摘するように「強制労働の朝鮮人を助けて警察に追われた事実」を出したくなかったためだとすると、「モデルであることを合意のもとで伏せた」ということとは別の批判がなされていいし、これに合意しているのであれば、神山氏も批判対象になるかもしれない。安倍政権やネトウヨに配慮してかどうか知らないけれど、事実関係を変えたことに協力してますから。
これ以上は観てない私では踏み込めないですが、どう考えたらいいのかは、「「吉原炎上」間違い探し」がいくらか参考になりましょう。こちらは「ドラマは、どこまで原作を改変していいのか」「現実にはあり得ない改変は許されるのか」というのがテーマです。
原作の斎藤真一著『吉原炎上』は、著者の祖母が実際に体験した事実をもとに、想像で補ったものですが、この想像は、私が見ても、現実にあり得る範囲に留まっています。それをドラマがあり得ない範囲にまで広げるのが許されるのかどうか。
また、「『親なるもの 断崖』はポルノである」も参照のこと。こちらは「フィクションであることを明示しながら、現実の地名や遊廓名を出して、現実にはあり得ない設定やエピソードを乱発した問題」です。
これらは倫理を問う以前に、時代考証がムチャクチャって話であります。「スカーレット」には時代考証のスタッフが2名いるように、フィクションでも時代考証は必要であり、それができてなければ批判されるのは当然です。
たとえば「スカーレット」で言えば、現実の地名、現実の固有名詞を出して、「この地域では上薬に処女の生き血を混ぜるときれいな色が出るとされていたため、誘拐してきた幼女を殺す習慣があった。主人公は、半殺しにされながらもこれを廃止させた」なんてデタラメをやっていいのかどうか。フィクションであると明示していてもやってはいけないことでしょう。
そのくらい『親なるもの 断崖』はひどくて、もっと微妙なラインにある「スカーレット」の参考にはならんか。
※神山清子に取材して書かれた那須田稔 ・岸川悦子共著『母さん 子守歌うたって―寸越窯・いのちの記録』。これを原作にしたのが高橋伴明監督の映画『火火』。
やらせの境界線
もうひとつ、テレビをめぐる話題。
昨年の日テレ「イッテQ」のやらせ問題は、ありもしない祭りの捏造ですから、いかにバラエティと言えどもやってはならないことです。
対して先週報道されていたテレ朝「スーパーJチャンネル」の仕込みはそこまでひどくない印象です。
この記事が比較的詳しい。
2019年10月16日付「AREA dot.」より
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