松沢呉一のビバノン・ライフ

三崎書房裁判・バイロス画集事件における芸術性をめぐる議論—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[21]-(松沢呉一)

時代や環境で左右される欲情のスタイル—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[20]」の続きです。

 

 

 

エロであっても娯楽であっても、表現の自由は守られなければならない

 

vivanon_sentence10月19日、高円寺パンディットで行なわれた第一回「わいせつ表現規制を考える」で、1969年に摘発された三崎書房の林宗宏社長は、裁判で“自社の出版物は娯楽本である”として、芸術性の主張をせず、“それでも表現は守られるべきだ”と主張した」という話をしました。

一般には「四畳半襖の下張り裁判」や「愛のコリーダ裁判」で、芸術論ではない表現の自由擁護がなされたと思われていたりしますし、私もいつの間にかそう思ってしまってましたが、改めて古いものを読み直したら、始まりはその前の三崎書房裁判でした。

摘発された本のうちの何冊かは私も所有していますが、私にとっての三崎書房はなんと言っても雑誌「えろちか」です。高橋鐵や梅原北明の特集号を筆頭に、この雑誌には大いに学ばせていただきましたし、裁判のレポートも掲載されています。

こういう言い方をすると、林社長が裁判で展開した主張と反するかもしれないですが、「えろちか」は性を正面からとらえようとした「性文化雑誌」というべき内容で、全冊保存してあります。

これを商業誌として成立させていたのは今では考えにくい。時代と密接に関係していて、1970年代は性を論じること、性を考えることは文化的な行為であり、なおかつ娯楽でもありました。その流れがいつの間にか消えてしまったのではなかろうか。

それこそ、刑法174条・175条について再考するための拠点になるメディアがない。マンガについては「マンガ論争」がありますが、広い範囲で取り上げる雑誌がない。セックスワークも同じです。自分らで作るしかないのかもしれない。

※三崎書房が出していた雑誌「えろちか」。安く古本屋に出ていますので一読をオススメします。右下の表紙画は伊坂芳太郎。表紙だけじゃなく、林静一、辰巳四郎、米倉斉加年、小妻要、佐伯俊男など、当時の人気イラストレーターたちが起用されたページがあったのも魅力的。

 

 

「芸術なぜ悪い」と「わいせつなぜ悪い」の対立

 

vivanon_sentence三崎書房裁判以降、1970年代に入って広くメディアで話題になるわいせつ裁判が続いて、「芸術性がなくても表現の自由はある」とする考え方が強まっていきます。この立場から「芸術だからわいせつではない」という主張に対して、「芸術論の主張は、芸術ではない表現を低く見て切り捨てるものであり、エロ表現に対する差別である。国家権力が芸術性を決定すること自体笑止であり、それを求めるのは権威主義である」といった批判がしばしばなされています。

この批判も理解はできるし、この批判が該当する状況もあります。

たとえば「バイロス事件」。これは起訴猶予になったため、裁判には至らなかったのですが、1979年、仏文学者・生田耕作訳により、生田ののちの妻・広政かをるが代表である奢霸都館から発行された『バイロス画集』が摘発され、広政かをるは逮捕されています。

この時に、生田耕作は、「猥褻なぜ悪い」ではなく、「芸術なぜ悪い」と主張しています。

バイロス画集は私も買いましたが、生田耕作がこれを芸術であり、国家権力がわいせつだと見なすことが許せない気持ちは重々理解できながらも、また、裁判になった場合に勝つ道筋として芸術性を打ち出すことも間違いとは言えないながらも、生田耕作と映画評論家・斎藤正治との論争を中心に編んだ『<芸術>なぜ悪い—バイロス画集事件」顛末記録』(奢霸都館・1981)を読んでこれは反発されて当然だとその当時思いました。

 

 

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