松沢呉一のビバノン・ライフ

奴隷船の比喩が有効だった時代と無効になった現在—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[3]-(松沢呉一)

田嶋論では日本には男女の差別が存在しないことになる—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[2]」の続きです。

 

 

奴隷船の例を使う時代錯誤

 

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前回見たように、田嶋陽子は自分の論にとって都合のいい数字を恣意的に使っていて、よくよく調査を見ると、まったく逆と言っていい結論が導き出されてしまってます。

たまたまのミスをことさらに取り上げているのではありません。田嶋論は現在通用しない物の見方によって成立しているのです。そのことを確認していくとしましょう。

田嶋陽子は、社会における男女の関係を奴隷船に喩えます。言うまでもなく、甲板の上にいるのは男であり、船艙で働かされているのは女というわけです。これはフェミニズムの始まりであるベーベルかミルあたりが使っていた比喩だったようにも記憶します。

構造を理解するためのわかりやすいモデルとしてはいいのですが、今の現実にはまったく役に立たないことは前回見たデータでも明らかです。

甲板にいる船員たち、船艙にいる奴隷たちに「生まれ変わったら、船員と奴隷とどちらがいいか」と聞いて、その差が16%しかない、あるいはまったく同じ数字が出るなんてことがあるはずがない。「船員と奴隷とどちらが楽しみが多いか」と聞いて、「船員」と答える船員よりも、「奴隷」と答える奴隷の方が多く、「現在幸福か」と聞いて、船員よりも奴隷の方が幸福と答えるのが多いなんてこともあるはずがないことはアホでもわかりましょう。

今の日本社会における男女の構造はもっと複雑で、だからこそ解決も難しい。

奴隷船は比喩でしかないのですから、極端でいいのですけど、こういう比喩は要注意でもあります。労働環境を「アウシュヴィッツだ」と表現することがあります。研修の名のもとに、監禁同然にされ、格安の時給で働かされる外国人労働者がこのような表現をするのは許されると思いますが、会社と社員の関係をすべてナチスの強制収容所になぞらえるのはさすがに無理があります。

こういう極端な比喩はむしろアウシュヴィッツの苛酷さを見ないことで初めて言えるものだと思います。歴史の軽視であり、ナチスの利用です。

田嶋陽子の論はここに陥っています。

An illustration shows slaves being shackled on board a slave ship.

 

 

極端な図式では解釈できない今の社会

 

vivanon_sentence奴隷船はこの本の中に幾度も出てきて、この社会が奴隷船であると思わせるように仕組まれています。その上で、田嶋陽子の論はその極端な図式をもとに展開されていきいます。比喩同様に、論自体が極端なのです。だから、今の時代には通じず、田嶋陽子の考え方では解決を遠ざけます。

過酷さがわかりやすい奴隷という存在を持ち込むことによって、前回見たような数字が明らかにしている厄介な現実から目を逸らしてしまっているのです。

田嶋陽子が好んで使う「奴隷」「奴隷根性」という言葉は、大杉栄と伊藤野枝もまた好んで使った言葉ですが、あの時代だったら、奴隷船はそのまま現実を映し出したものとして使えるモデルです。選挙権にせよ、被選挙権にせよ、財産分与せよ、姦通罪にせよ、契約にせよ、婚姻にせよ、教育制度にせよ、法が男女で違っていて、男女の間に「支配する側/される側」という線引きは可能だったでしょう。

その時代にあって、男女の格差は個人の意思や能力だけでは解消不可能でした。

大正期からは働ける分野が増加しますが、それまで女の仕事は農家であれば家の手伝いか子守り、あるいは器量よしは娼妓か芸者、器量がよくなければ女工です。

経済的な余裕のある層だと、狭いながらもさらに選択肢はありましたが、一般的には男のように、敬意を払われる仕事に就いて、そこそこの給料を得るには、師範学校を出て教員になるか、看護学校を出て看護婦になるくらいしか選択肢はない。

森律子のように弁護士になりたくても、法が許しませんでした。その法を変えたくても、女は政治家にはなれない。

まして、ほとんどの女たちは自立なんてできるはずがなかったのです。女学校を出なくても、いい収入を得て、自立するほとんど唯一の方法は売春でした。しかし、それをやると捕まり、報道されて晒しものにされました。個人の決定権はないに等しい。

しかし、今の時代はそれらの法は撤廃、改正されていて、職業の選択肢も広がりました。法として差別的扱いが残っているのは、売防法などほんの一部でしょう。

 

 

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