松沢呉一のビバノン・ライフ

時代や環境で左右される欲情のスタイル—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[20]-(松沢呉一)

規制の中で生じたビジネスや感覚が足を引っ張る—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[19]」の続きです。

※すいません、この回を出すのを忘れてました。「三崎書房裁判・バイロス画集事件における芸術性をめぐる議論」はこのあとに続きます。

 

 

 

「隠すからいい」という美学

 

vivanon_sentenceマゾやLGBTはとくに言いにくいため、隠すことの美学が生じやすいのだと思うのですが、そこに留まらず、「隠すからいいのだ」つまり「性器を見せないからいいのだ」と言う人たちがよくいます。エロ業界の人たちの中でもこういうことを言う人たちは多いものです。

隠すからファンタジーが生ずるのは普遍性のある真理だろうと思います。「全裸より着衣で興奮が生じる現象—『マゾヒストたち』(9)」で書いたことに通じる話。だったら、水着も下着姿もすべて禁じて、「着物の裾から見える足首」や「服の上から見える胸の膨らみ」を極上のポルノとして満足すればいいはずです。しかし、その人たちもそうなったら全力で反対するでしょう。

結局、法で規制されてきた中で価値を作り出してきたため、現状の規制を肯定してしまっているだけです。「中国の不自由・日本の不自由—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[横道編 11]」に書いたように、規制されるとその中で発想して、その中で価値観が生じてくる現象です。

これは世間一般にある現象であり、174条・175条の議論をすると必ずこういう人たちが出てきます。規制された表現物はそれを見る人たちの意識も規定していきます。

性器を表現できるようになったところで、性器を必ず出さなければならないわけではなく、ポルノ解禁以降も、「PLAYBOY」のようなソフト・ヌード路線の雑誌は残ったのですから、それがいい人はそういうもので満足すればいいだけのことです。

現実に文字のポルノは現在の日本で摘発される可能性はほとんどなくなってますが、ポルノ小説ではなお女性器に対して「花弁」「蜜の壷」「谷間の湧き水」「フーガを奏でる突起」といった表現をします。こういう婉曲表現が私はムチャクチャ苦手なので、いい例が全然出てこないですが。これを「マンコから愛液が垂れてくる」と書くとエロくない。だから、私の文章はエロくないと言われます。そこにあるものをそのまま正確に表現しようとしてしまうとファンタジーが生じない。

婉曲な表現を追求したい人は追求すればいいし、その方がいいと思う人は買って支えればいい。

でも、そういう発想ができず、他者もそこに従わせたい人たちがいるのですよね。たとえば夫婦別姓だって、夫の姓を名乗りたい人、名乗らせたい人は引き続きそうすればいいだけなのに、全部が自分と同じじゃないと納得できない。全体主義、うぜえ。

※今も出ている本家「PLAY BOY」のサイトより

 

 

「性生活報告」に見られるエロ表現

 

vivanon_sentence性生活報告」という雑誌があります。以前に比べると表紙の色遣いや文字、イラストが派手になり、DVDが付録についていることから、創刊以来のしっとり落ち着いた路線では厳しくなってきていることがわかりますが、エロ本が消滅しつつあるご時世に、いまなお出ています。

どこまで本当なのか(「どこまで本当の投稿なのか」とともに「本当の投稿だとして、その内容がどこまで事実なのか」)の判断がつかないですが、高年齢の人々による投稿を中心とした雑誌で、読者の多くもその世代です。雑誌、とくに文字で興奮する世代が買うために生き残っているのでしょうけど、この世代はどんどん死んでいきますから、あと何年続けられることやら。

 

 

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