松沢呉一のビバノン・ライフ

「アートの文脈」を再確認する—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[24]-(松沢呉一)

美術モデルはわいせつか?—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[23]」の続きです。

 

 

 

アート文脈に守られてきた

 

vivanon_sentenceこれまではぼんやりと日本でも「アートの文脈」は保護されているように誰もが思ってきて、だから美術モデルが公然わいせつに抵触しかねない仕事だとされていなかったわけですが、誰も文句をつけなかったに過ぎません。大前提として美大に入るような人たちは、この認識を共有してきたと思うのですが、昨今はそうとも言えなくなってきています。

ほとんどの人が猥褻だと感じないのですから、法的にもわいせつではないはずですが、京都造形大学をめぐる訴訟で明らかになったように、美術関係者が当たり前だと思えている文脈を猥褻であり、セクハラであると感じる人が出てきた途端に「アートの文脈」は瓦解しかねないのです。それがいかに少数であり、例外的存在であっても、馬鹿げたセクハラのガイドラインを作っている学校であれば、たった一人でこれを覆せる。

あるいは「あいちトリエンナーレ」で見られたように、「アートの文脈」をなんら尊重する気のない人々が、作品を理解する気がないまま、一部を切り取って、「私の感覚」「私の感情」で騒ぎ出し、市長までがそれに同調すると、「美術の文脈」は文脈外の人たちにあっさり押し切られてしまう。脆弱なのです。

その弱々しい文脈を危うくするガイドラインを制定したことで、大学自身が自殺行為と言っていい事態を招いたのが京都造形大の騒動です。

私は大学は聖域でいいのだとも思っています。自治が認められる場であり(香港あるいは中国全土を除く)、美大は美術の文脈と大学の文脈のふたつの側面から、美術モデルがわいせつか否かの決定権をもっていていいと思います。

しかし、京都造形大学や同様のガイドラインを制定している他大学はその資格を自ら放棄してしまいました。文学部であれ、法学部であれ、社会学部であれ、医学部であれ同じです。どうしてその危うさを職員や教員、学生たちが放置しているのか、さっぱりわかんねえ。

ガイドラインがどうあれ、法律あるいは判例上、多数の人を前にしたヌードデッサンが法的にわいせつになりかねないこと自体がおかしくて、せめてここは変えないとまずくないっすか。

Large group of Farnsworth Art School students paint a nude model in Rockland, Maine (1946) 私有地だとしても完全にアウト

 

 

「不特定かつ多数」を「不特定および多数に」

 

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この時に警察、検察、裁判官が危惧するのは、アートに偽装したエロが出てくることだろうと想像します。具体的には売防法以降に流行ったヌードスタジオです。エロ目的で裸を見ることをアートで偽装し、あとは交渉次第でどこまでも、という性風俗です。撮影会と称して、エロ目的の客を集めるビジネスも現在行なわれていますね。

私はそれもありだと思うのですけど、それを防ぎたいのであれば、公然わいせつの要件を「不特定」だけにするか「不特定および多数」にすればいい。大学内でそれが必要なコースの学生であれば何人いてもいいのですから、少なくとも美術モデルについては違法になるリスクは消えます。引続き、部外者は入れないようにする工夫が必要ですが。

 

 

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