松沢呉一のビバノン・ライフ

「新しい女」は自らの性愛を商品化した—伊藤野枝と神近市子[付録編 4]-(松沢呉一)

大杉栄らの自由恋愛と平塚らいてうらの自由恋愛—伊藤野枝と神近市子[付録編 3]」の続きです。

 

 

「新しい女」は自らの性愛を商品化するムーブメントでもあった

 

vivanon_sentenceここまで見てきたように大正期の社会運動では、ビジネスと表現と運動と性愛が一体化していました。もちろん、全員がそうしていたわけではないし、意識的だったかどうかは別にして、「新しい女」は、女たちが自らの性愛を商品化するムーブメントでもあったのです。画期的。

「新しい女」は好奇の視線をつねに集めてましたから、何をやっても叩かれる。すぐに記事にもされる。謝礼をもらって情報を流すのもいたでしょう。だったら、新聞や雑誌に書かれる前に、自分らが書かれたいことを先手を打って書く。伊藤野枝は、プライバシーを公開する理由をそんなふうに弁明していたはずです。

それが主観としての真意だったとしても、ここで起きているのは客体から主体への転換です。

それまでは、あるいはそれ以降も、女優たちはスキャンダルの主人公として、新聞や雑誌の対象となってしましたが、「新しい女」は、「私」という主語を獲得することで、客体から主体となりました。あばずれの主体化です。

売春についての評価は「青鞜」の中でも割れるわけですけど、自分の体、自分の存在を何にどう使うも自由であるとの考えを押し進めたのです。

不倫の子を産んだことを一生隠し通そうとした矯風会初代会頭の矢島楫子の生き様が道徳的に正しいとするのなら(矯風会にとっては正しくないから隠したわけですが、隠したことの正当化をしたことによって隠すことが道徳的に正しいことになった)、自らそれを晒す「新しい女」は不道徳であり、はしたない。まさに「阿婆擦集団」。社会を変えていくのは道徳からはみだすあばずれであり、性愛の主体化がそれを実現していきます。

前回出てきたマリー・ストープスですが、その代表作である『結婚愛(Married Love)』は戦前日本でもベストセラーとなり(最初の版は発禁で、訂正版が出されたと記憶します)、戦後も何度か邦訳されています。古本で探せば安く出てますが、現在は新刊書としては読めないみたいです。でも、『性の革命―マリー・ストープス伝』なんてもんが出ているのを発見。これは読んでおいてもいいな。

 

 

「男対女」の軸だけで見ると見誤る

 

vivanon_sentenceここまで見てきたように、「新しい女」の登場を大多数の女は容認せず、ひどく叩きました。津田梅子を特殊な一個人の問題としてとらえるのではなく、世間一般の代表として津田梅子は「新しい女」を悪魔呼ばわりしたことを見据えた方がいい。

一方で、社会主義者、無政府主義者たちを筆頭に、男でも「新しい女」を支持するのが少なからずいたわけですし、西村伊作が与謝野晶子と文化学院を始めたのも、既存の女学校に対するアンチであり、だから学校の登録をせずにスタートしました。

「男と女」の対立だけで見るべきではなく、「道徳維持派と道徳懐疑派」の対立だったことを見据えるべきです。そこを見極められていないから、おかしなことを言い出すのが出てきます。

男と女という属性だけで世界を解釈できるなんて勘違いをするから、平塚らいてうも津田梅子も神近市子も、女だからみんな等しく偉いと見えてしまう。個別にその言動を検討して「ここは肯定できる、ここは肯定できない」との判断は当然あって、私も津田梅子を全否定する気はないことは、このシリーズの始まりを見ていただければおわかりになろうかと思います。

しかし、ただの性別で判断をするのは間違いです。そんなことは言わなくてもわかるはずですが、これをやっている人たちが今現在もいます。

「男が戦争を起こす。女が政治家になれば平和になる」なんてことを臆面もなく言っている人たちはその典型です。

 

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