松沢呉一のビバノン・ライフ

劣等感と優越感の間で揺れる神近市子—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 2]-(松沢呉一)

瀬戸内寂聴著『美は乱調にあり』を面白く読めなかった理由—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 1]」の続きです。

 

 

大杉栄は案外抑制的

 

vivanon_sentence瀬戸内寂聴が神近市子を愛を貫いたために被害者となった哀れな人物として描こうとする意図があったのであれば、もっと手を加える箇所があったはずです。

月々生活費として10円20円と金を渡していたことにして、巷間思われているような「神近市子は大杉栄の生活を支えていたパトロンであった」という誤解をなぞるのは、事実と明らかに違うのでできないとしても、大杉栄は稀代の女たらしだったことにすることくらいはできたのではないか。そんな記録はないですが、記録のないところでそうだったことにしても、あんまり問題にはならなかったかもしれない。

しかし、瀬戸内寂聴は大杉栄を貶めるようなことはできなかったのでしょう。

そこに手を加えていないがために、瀬戸内寂聴著『美は乱調にあり』も役に立つ。この小説を慎重に読めば、大杉栄は決して女たらしというタイプではなかったこともわかります。

ここに登場する大杉栄の相手は、同棲していた歳上の女、妻の堀保子、伊藤野枝、神近市子だけです。大杉栄は、性愛の自由を主張しながら、実際にはこれ以外に浮いた話はなかったのではなかろうか(寮での同性との行為や淡い恋は除く)。女郎屋にも行ったことがないと自分で書いてます。そこまでの行動は、同世代の活動家としては地味とさえ言えます。

大杉栄は堀保子との生活を続けていて、ここに現れたのが伊藤野枝です。伊藤野枝と大杉栄は、ご多分に漏れず、思想的同志を超えた愛情を交換するような原稿を書き合って、そのことは多くの者が知るところでした。

しかし、この関係はしばらくの間は深まることはありませんでした。大杉栄と辻潤は互いに好意を持っていましたから、さすがにその妻を奪うことはできなかったのでしょうし、自分にも保子がいることが抑制したのだろうと思います。伊藤野枝もはっきりと大杉栄に好意を抱きながら、かつ辻潤への愛情が失せつつありながら、子どももいるため、踏み込むことはできませんでした。

※今まで辻潤の写真を出していませんでしたが、右が辻潤。左は伊藤野枝との子どもである辻まこと。昭和三年、シンガポール動物園にて。こちらから借りました。

 

 

劣等感と優越感が交互に表れる神近市子

 

vivanon_sentenceこのバランスを壊したのが神近市子です。どっちから迫ったのかについて、私は確認できていないですが、瀬戸内寂聴は、強くではないにせよ、神近市子の方から言い寄ったと見ています。それを示す資料に基づいているのではなく、瀬戸内寂聴の想像かとも思うのですが、大杉栄のそれまでの行動から、こう想像したのはもっともです。つまり、神近市子は自身の意思で、堀保子、伊藤野枝がいることを知りながら大杉栄との関係をスタートさせたってことです。

神近市子との関係が始まると、今度は伊藤野枝と大杉栄との関係が再燃し、伊藤野枝は辻潤を捨て、大杉栄のもとに走ります。そうなったのは神近市子の関係がきっかけにもなったのでしょうが、もともと惹き合っていた関係でしたから、大杉栄も今度は躊躇はなく、自身が書いているように、雑誌が発禁続きで身動きがとれず、ヤケになっていたということもありましょうし、例の「戦略的話題作り」も頭にはあったでしょう。

それを知った神近市子は伊藤野枝に対する強烈な嫉妬を抱くようになっていきます。

ここが神近市子の面白いところです。神近市子は妻の堀保子がいることを知っていても眼中にはありませんでした。

神近市子が保子にあからさまに優越感を抱いたのは、彼女のコンプレックスの表れでもあります。男にとって魅力のない女なのだと彼女は自覚していましたが、保子には勝てると思ってました。自分の方が若く、才能も新聞記者という地位もあります。劣等感の強い人によくあることです。優越できる点を探して、優越できる相手には強く出る。人を対等には見ない。

上野千鶴子には媚びへつらっても、セックスワーカーからの抗議には真摯には答えない人もそういうタイプかもしれない。いや、「かがみよかがみ」の伊藤あかり編集長のことだなんて誰も言ってません。伊藤あかり編集長のことを侮蔑する流れではないので、批判されても反論しようがない。

※辻まこともすごく気になっているのですが、読んだことはない。今も画文集『山からの絵本』などが出ています。伊藤野枝は虐殺され、辻潤は餓死し、辻まことは自殺。

 

 

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