松沢呉一のビバノン・ライフ

伊藤野枝と神近市子の違い・平塚らいてうと瀬戸内寂聴の違い—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 3]-(松沢呉一)

劣等感と優越感の間で揺れる神近市子—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 2]」の続きです。

 

 

伊藤野枝の視点・神近市子の視点

 

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もうひとつ、美は乱調にありが平板になっているのは、動機の説明が不充分だったためです。

神近市子が彼女なりに愛を貫いたのは事実でしょう。大杉栄を殺そうとしたのも伊藤野枝から永久に奪うためです。神近市子を突き動かしていたのは伊藤野枝への憎悪です。それまでにも大杉栄を殺すと口走ってはいても、殺したかった相手は伊藤野枝だろうと思います。それが果たせずに大杉栄を刺し、自分が刑務所に入っている間に伊藤野枝と大杉栄が2人の生活を続けることになることが許せず、殺さなければならなかったのです。

裁判でも憎悪を隠していないですし、戦後に至るまで伊藤野枝への憎悪を自著に書いています。あの調子だと、大杉栄と伊藤野枝が虐殺されて笑ったかもしれない。あるいは自分の永遠の負けが決定して悔しがったかもしれないですが、すべては伊藤野枝への憎悪です。

その伊藤野枝は神近市子に対して余裕のある態度であったことが美は乱調にありでも読み取れます。大杉栄の取り合いにおいて優位だったということもありますが、この時点で伊藤野枝は他に意識をもっていかれていたのだろうと推測します。

瀬戸内寂聴著『美は乱調にあり』を面白く読めなかった理由—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 1]」に、神近市子が青鞜社に接近したのは「個の解決」を求めてだったと書きました。これは伊藤野枝も同じでした。望まない結婚から脱出するために平塚らいてうに接近しました。婦人運動は「個の解放」と切っても切れない関係にありますから、ここまでは半ば当然と言えます。

しかし、「青鞜」を経て伊藤野枝の視野は大きく広がっていて、「私」という「個の解決」から離れ、婦人問題をも超えて、その頃の関心事は足尾鉱毒事件です。「男と女」という軸ではない軸を獲得し、「社会の解決」で頭がいっぱいになっていて、辻潤を頼りないと思い始めるのは、生活力がないだけでなく、辻潤が社会に無関心であり、無力であったことにあります。対して大杉栄は自分の怒りを理解してくれました。この辺については美は乱調にありにある通り。

神近市子にはそれがない。神近市子は視野が狭い。自分のことで頭がいっぱい。エロ(愛ってことでもいいですが)で頭がいっぱい。

角川文庫版

 

 

事件の背景にあった道徳の桎梏をも見据えていた平塚らいてう

 

vivanon_sentence美は乱調にあり』の平板さに比して、平塚らいてうの神近市子評には怖くて震えます。

伊藤野枝が大杉栄とともに虐殺されたあとの伊藤野枝評も冷酷でしたが、あれはすぐそこで虐殺が起きるような時代にあって、「私は関係ありませんから」と防御のために伊藤野枝を切り捨てたのに対して、神近市子評はストレートに思っていたことを書いたものです。であるがために、なぜ日蔭茶屋事件が起きたのかの背景について、余すところなく書き切っていて、平塚らいてうの人間観察に感服します。

もともと「宗教的偽善者」であるとわかっていたため、平塚らいてうは神近市子にはいい感情を抱いていませんでした。「それをこのタイミングで吐き出すか?」とも思いますが、これをやっておかないと、神近市子がただの被害者として哀れまれることになり、そうなったら、道徳という桎梏が見えなくなます。大杉栄を批判しつつも、神近市子を縛り付けた道徳を見据え、その流れで津田梅子までを批判し、神近市子を主体的な人間として扱っている点において、平塚らいてうは社会に媚びませんでした。

 

 

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