松沢呉一のビバノン・ライフ

花房観音「瀬戸内寂聴は神近市子が好きじゃないと思う」—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 4](最終回)-(松沢呉一)

伊藤野枝と神近市子の違い・平塚らいてうと瀬戸内寂聴の違い—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 3]」の続きです。

 

 

 

疑問に対する鮮やかな回答

 

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前回まででこの話は終わる予定だったのですが、別件でやりとりしている時に、なぜ瀬戸内寂聴は神近市子を平板にしてしまったのかについて、花房観音さんに振ったら、鮮やかな回答を瞬時にもらいました。

『美は乱調にあり』を読むと、寂聴さんが神近市子のこと好きじゃないから、そうなっているのかと思いました

前後があるのですが、これで私の疑問はあっさり氷解しました。

言われてみれば「ああ、そうか」と納得できるのですが、まったく私は考えてませんでした。あの平板な人物描写は「大杉栄に利用されただけの哀れな女」にも見せていて、むしろ神近市子に好意的なのではないかとさえ思ってました。なにしろ、神近市子を美人にしているわけですから。

だから、その時点で存命だった神近市子に配慮したとも考えたわけで、その可能性もなおあるとして、それよりも「好きじゃない」、さらに言えば「嫌い」と考えた方があの平板な人物描写がすっきり納得できます。瀬戸内寂聴は、正確に神近市子を描写するほどの関心がなかったのです。

瀬戸内寂聴は、伊藤野枝については福岡に住む親族に話を聞きに行くほどの熱意がありましたが、神近市子については調べが浅かったのではなかろうか。まだ生きていたのですから、本人に話を聞くこともできたわけですが、聞いたならそう書くはずです。

美人と書いたのも、「美人と書いておけばすべて完了」といった投げやりなものと思えなくもない。美人じゃなかったら、どこに大杉栄が惹かれたのか、美人じゃないことがどう神近市子の人格に作用したのかを説明しなければならなくなります。

ここに気づくかどうかはフィクション畑の物書きとノンフィクション畑の物書きとの違い、あるいはなんのための表現なのかの違いかもしれない。私とて、人として嫌いな人の本、書いている内容が嫌いな人の本を好んで読むことはない。しかし、批判というモードでは読みます。読むのが辛くて挫折することもありますが、読もうとはします。

しかし、フィクション畑の人はそこまではしない傾向がありそうです。わざわざ嫌いな人を小説内でこき下ろすような例もありますが、その場合でも対象について調べて正確な人物設定にして批判しようとは思わないでしょう。それをやるとしたらフィクションから離れてやる。

※文庫化された花房観音著『好色入道』。この本についての説明を書いていたら長くなったので独立させました

 

 

神近市子の嫌いになりきれない部分

 

vivanon_sentence事実を書くノンフィクションと違って、小説家は登場人物の内面までしばしば踏み込むわけですが、すべての登場人物の内面に深く踏み込むことはしない。どうでもいい人はサラリと流す。まさに神近市子の描写はそんな感じです。

私が神近市子の著書まで読んだのは、「売防法制定に関与した議員はどんなヤツか」という興味であり、なおかつ「大杉栄を殺そうとした殺人未遂犯はどんなヤツか」という興味もありましたが、ほぼそれだけです。

言うまでもなく神近市子は心底嫌いであり、なんであんな人間になったのか、また、どのくらい嫌いかを確かめたかったのです。ただ、その全体像が見えてくるに従い、嫌いになりきれない部分が出てきます。好きとまでは言わないですが。

 

 

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