松沢呉一のビバノン・ライフ

地獄はそんなに悪いところではない—花房観音著『好色入道』-(松沢呉一)

花房観音「瀬戸内寂聴は神近市子が好きじゃないと思う」—伊藤野枝と神近市子[瀬戸内寂聴編 4](最終回)」を書いていたら、『好色入道』の話が長くなったので独立させました。

 

 

仏教系官能小説『好色入道』

 

vivanon_sentenceまずは花房観音著好色入道のあらすじ。

 

主人公は元テレビ局のアナウンサーであり、現ジャーナリストである東院純子。大学時代はミスコンに出ていた美貌の持ち主。ジャーナリストを志望して入社したテレビ局でアナウンサーに抜擢されたのもその美貌が故だったが、彼女は見た目だけを評価する男社会を嫌い、また、そんな男社会に媚びる女子アナたちも嫌って退社。その美貌に近づいてくる男たちを蔑視し、同時に彼らを利用し続けてきたのだが、ジャーナリストとしてはパッとせず、その功名心と恋心から京都市長選の取材をすることになる。これに対して京都の闇世界を支配する勢力が用意周到な罠を仕掛け、まんまと純子はその毒牙にかかる。彼らは表向きの顔と違う裏の顔を持ち、純子の精神と肉体をズタズタに引き裂いていく。この闇勢力を代表するのが秀建という生臭坊主。彼は貧しい漁村で生まれ、醜い容姿に強い負い目を抱き続け、憎悪とコンプレックスをバネに権力を得て、自分を嘲笑した社会に復讐していく。純子の運命やいかに。

 

てなところ。

表と裏のある京都を舞台に、人間の表と裏を描いていて、純子は京都の表層を見ていただけだったのと同時に、人間の表層を見ていただけであり、やがて京都の深部、人間の深部に引き込まれて、いきつくところは『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』でありました。

これらのすべての背後で人々を操るのが花房観音で、これがまた極悪非道です。主人公に対して次々と悪巧みを仕掛けてきて、表と裏、聖と俗、正と邪、極楽と地獄が交錯するスペクタクルな大団円へと導きます。ラストは半笑いになりつつ、圧巻です。卑しいとされる人間こそが輝く長堂英吉「ランタナの花咲く頃に」のラストをも彷彿とさせました。

 

 

パタパタと白が黒になり、黒が白になるオセロ小説

 

vivanon_sentence読んでいる段階で端々に感じたのですが、「ビバノン」で論じてきたようなテーマが見事に詰まっています。

マゾヒストたちで見たように、また、それにからめて書いてきた「ビバノン」の一連の記事のように、セックスという領域で逆転が起きることを我々はしばしば経験しています。経験していない人は経験が足りないか、観察が足りない。

好きだと思っていた相手とセックスをしたら一回で冷める。たいして興味がない相手とセックスしたら離れられなくなる。

通常は不潔である性器をその領域ではなめることができる。不快なものが快になり得て、不快だからこそ乗り越えることに意味が出る。

ふだんは攻めの姿勢で知られる人が、性の領域では一転してマゾになる。出版界では有名なイケイケのあの人がそうだと言われています。

こういった逆転がダイナミックに起きるのが『好色入道です。そのことをよくわかっているはずの私でも「えーっ? そんなあ」とたびたび戸惑いました。人はフィクションを楽しむ時に「こいつはいいヤツ」「こいつは悪いヤツ」というふるいわけをするわけですが、その区分けさえも壊されていくことの快と不快。

ただの「予想外の展開」、ただの「どんでん返し」なのでなく、その逆転が起きるラインが明確に意識されていることがこの作品の特徴であり、メッセージです。

※単行本版『好色入道

 

 

モーツァルトとウンコ

 

vivanon_sentenceそのふたつの領域は個人の中で切っても切れない関係にあって、第三者が個人の領域を侵犯してはいけない。

四半世紀ほど前「ユリイカ」か何かに原稿を書いたことがありますが、モーツァルトはウンコネタを好みました。多くは親族によって廃棄されたようですが、モーツァルトは手紙にウンコだのケツだのといった言葉を頻繁に使いました。ただの言葉遊びとも言えますが、実際にスカトロが好きだったとの説もあります。醜を知る人が美を作り出すのであって、醜・不快を消し去ると、美も快も存在し得ない。

 

 

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