松沢呉一のビバノン・ライフ

6人の子どもを射殺したエルナ・ペトリ—ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子[6]-(松沢呉一)

意思ある個人を見えなくした「犠牲者化」—ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子[5]」の続きです。

 

 

 

収容所に関する誤解

 

vivanon_sentence私自身、ウェンディ・ロワー著『ヒトラーの娘たち』の以下の記述を読むまで大きな誤解をしていました。

 

毒を満たした注射針、銃、攻撃用に訓練された犬、そのほかの殺傷能力のある武器を用いて、これほどまでに暴力的に振る舞い、殺人さえも犯したドイツ人女性がどれほどいたのかを、正確に知る日は来るだろうか。数字だけで説明することはできないが、事実を垣間見せてはくれる。たとえば、学者や一般の人々は長年、ナチ収容所の数は、合計で二、三〇〇近く、ひょっとしたら二、三〇〇〇にも上ると考えてきた。しかし、アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館の研究者らは、近年、ナチ支配下のヨーロッパに四万以上の収容所があった事実を突き止めている。収容所とゲットーの制度は、通常、社会から切り離された世界だと考えられていたが、今では、地域のコミュニティと融合していたと理解することができる。収容所の壁が、隔てるための障壁であったとの考えは徐々に失われつつある。一般に犠牲者は、それぞれ数カ所の収容所やゲットーを体験していたので、収容所の数が増えたからといって犠牲者の数が著しく増えるというわけではないが、これらの収容所を作り、運営し、また訪れた加害者、共犯者、目撃者の数がかなり多かったことは確かだ。私たちが考えていた以上に多くの人々が関与し、組織的な迫害と殺人を知っていたのである。

 

 

アウシュヴィッツを筆頭とする名を知られる収容所では逃亡は困難でしたが、ゲットーと収容所の間に位置するような「地域のコミュニティと融合していた収容所」が多数あったようです。また、ゲットーにドイツ人が入り、そこで虐殺も行なわれました。虐殺の範囲は思っていた以上に広く、そこに関わった人々も思っていた以上に多かったのです。

このことは、本書で具体的に挙げられている殺人が、収容所の中ではなく、外で行なわれたことの説明にもなってます。隔離されていた場所から出ることができないまま殺された人々とは別に、その外で、時に衆人環視の中で虐待と殺人が行なわれました。

これが東部の特徴で、ドイツ国内では見ないで済ませることがまだしも可能でしたが、東部では路上に殺されたユダヤ人の遺体が転がり、首をくくられた遺体が木にぶら下がり、銃声や叫び声が聴こえ、しばしば学校や職場、自宅近くに逃亡したユダヤ人が現れる。それらを見ず、聞かずに暮らすことは不可能だったことが本書では詳細に記述されています。誰もが何が起きているのかを知っていたのです。

しかし、ルール外のホロコーストであったことが戦後の責任追及を困難にしていきます。そのことを具体的に見ていきましょう。

2013年10月8日付「ニューヨーク・タイムス」掲載の書評

 

 

6人の子どもを射殺したエルナ・ペトリ

 

vivanon_sentence厳重に管理、監視された収容所じゃなければ、ユダヤ人たちは逃げようと思えば逃げられる環境にいたとも言えるのですが、つねに殺す気でいるドイツ人たちがいる場所で逃げたところで殺されるだけです。事実、逃げた少年たち6名を射殺したのがエルナ・ペトリ(Erna Petri)でした。

私がこの人の名前を唯一記憶していたのは、あまりにひどい例としていずれ取り上げようとしてメモしていたからです。

エルナ・キュルプス(Erna Kürbs)は1920年に生まれ、農村に育ち、学校を出たあと家事使用人として働いている時にダンスパーティで親衛隊員のホルスト・ペトリ(Horst Petri)と出会って結婚。

ホルストはSS少尉としてウクライナに赴任し、ポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人の使用人を笑いながら鞭で叩くサディストと言われていました。

それまでにも夫婦で逃亡したユダヤ人を狩ったり、庭に現れた逃亡ユダヤ人4人をホルストが射殺するなどの行為があり、夫婦揃って職務を超えた残虐性を見せていました(SSはその場で判断して射殺する権限をもっていたので、ここまでは職務内とも言えますが)。

1943年の夏、エルナが馬車で買物に出かけた際に、道ばたにボロをまとった6人の少年がいることを発見。一瞥して、ユダヤ人の輸送列車から逃亡したのだと察知して、家に連れ帰ります。少年たちは腹を空かせていたため、食事を与えて夫の帰りを待ちますが、戻ってこないため、少年たちを森の中に連れていき、すでにユダヤ人たちが埋められていた穴の前に立たせて、すすり泣く少年たちを後ろから撃って全員を殺しました。

少年たちは6歳から12歳。その時、エルナ・ペトリは25歳で、2人の子どもがいました。

エルナ・ペトリ。エプロンをしたママがバイクにまたがっているのは妙ですが、本書でその意味が解説されています。ヴァイマル時代、車までは買えない層が熱中したのがバイクで、「新しい女」たちはショートカットでタバコを吸ってバイクに乗るのが最先端。バイカーはフラッパーの一流派だったようです。対してエプロンは、ナチス時代の民族的優越性を誇示する女性のシンボルであり、家庭的であることだけを示すものではないとのことです。その合体がこの写真。今後写真を見る時はバイクとエプロンを気にしておきます。

 

 

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