松沢呉一のビバノン・ライフ

傍観者から殺人者まで—ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子[資料編]-(松沢呉一)-[無料記事]

ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子」の資料編です。

 

 

 

『ヒトラーの娘たち』のわかりにくい点をクリアにする

 

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ウェンディ・ロワー著『ヒトラーの娘たちは決して読みやすくはありません。残虐な描写が耐え難いという人もいましょうし、そう書いてある書評も見られますが、私が言っているのはそういうことではありません。文章も論理も平易なのですが、人物の把握が難しいのです。

時系列とテーマのふたつの軸で進行していき、同じ人物が間をあけて登場するため、「この人、誰だっけ?」ということがたびたび起きます。馴染みの薄いドイツ人の名前ですし、結婚して姓が変わる上に、愛称も出てきます。

ネタバレにならないようにでしょうけど、本の冒頭に掲載された13人の登場人物紹介は、シンプルすぎて役に立ちません。ポーランドやウクライナに疎い私としては、その中のエリアの名前を書かれても区別できず、いちいち前に戻って読み直さないと正確にはわからない。

その整理のために、本を読み直して人物ごとに経歴と東部占領地域でやってことをまとめました。これをやることで初めて見えてきたことがあります。

それをもとに、ここまでにエルナ・ペトリパウリーネ・クナイスラーヨハンナ・アルトファーターヨゼフィーネ・クレップリーゼロッテ・マイヤーリーゼル・リーデルヴェラ・ヴォーラウフの7名を取り上げてきました。残りの6人は付録として出しておきます。人物のプロフィールがわかったところで、この本の価値が落ちるわけでもなく、読む気がなくなるってことはないでしょう。これからヒトラーの娘たち』を読む方はご利用ください。

なお、この13人以外にも登場する人物はいるのですが、その人たちは飛び飛びで登場するわけではないので混乱が生じにくく、このリストでも省きました。

名前の後ろについている「目撃者」「共犯者」「加害者」の区分はウェンディ・ロワーによるものです。

 

 

インゲレーネ・イヴェンス(Ingelene Ivens) 目撃者

vivanon_sentenceキール出身の教師で、ボーランドの寒村ヴァルテガウに赴任を命じられた。当時のポーランドの学校ではユダヤ人の生徒の排除が進んでいたことが記述されており、彼女もそれに従ったことが推測できるが、これについてはそれ以上の記述はなくて、教員が間接的なホロコーストの加担者であったことを示しているのみ。

収容所から学校に助けを求めに来たユダヤ人に、子どもらが罵声を浴びせ、石を投げて追い返したことを目撃し、子どもを叱ってもいる。

 

 

エリカ・オーア(Erika Ohr) 目撃者

vivanon_sentence農家の娘として生まれ、神父の家の家事手伝いと子守りをしていたが、赤十字の看護婦たちを見て感化されて看護学校に入り、卒業後の1942年、ウクライナの地方都市ジトームィルの外科病院に派遣された。そこは東部戦線で負傷したドイツ兵が収容される凄惨な場所だった。また、路上に転がった殺されたユダヤ人の死体、首をくくられ木にぶら下げられた死体を見ることにもなった。

エリカ・オーアはその体験を戦後回想録として出版、この回想録に対してウェンディ・ロワーはこう書いている。

一九四四年にポーランドで体験した歯痛や食事について詳細に説明することができるのに、野戦病院の回廊でたった一人の「パルチザン」が射殺された事情を、ぼんやりとしか思い出せないのはなぜなのだろうか。「彼が誰なのか、何を計画していたのかははっきりしません」。オーアは興味がなさそうに記しており、さらに、「この戦争では、どちらの側にもはっきりしないことがとても多かったのです」と続けている。道徳的な相対主義と熟考することへの拒否は、当時と戦後の思考を反映している。

 

 

 

アネッテ・シュッキング(Annette Schücking) 目撃者

vivanon_sentence文豪を輩出してきた名門の生まれで、父親はヴァイマル政権の中心党だったドイツ社民党の党員だったため、ナチスによって政界から追放された。娘のシュッキングはナチス独裁に反対して、法学を専攻して国家試験を通ったが、ナチスは法曹界から女性を排除したため、弁護士になることができなくなり、看護師になって、ウクライナのノヴォフラド=ヴォルィンシキーに赴任。

列車の中で、兵士たちが人口1万8千人のノヴォフラド・ヴォルィンシキーの約半数を占めるユダヤ人が全員虐殺されたことを話しているのを聞き、同僚たちとユダヤ人居住区に行ってみたところ、荒れ果てた家々が残されているだけだった。同僚たちはまだ使えそうなものを戦利品として持ち帰った。

ユダヤ人たちから「正規に」没収した品々は倉庫に入れられ、職員たちはそれらの品を横流ししてもらえ、シュッキングは持ち帰らなかったが、嬉々として持ち帰る女性職員らもいた。

シュッキングがナチスに失望し、これらの行為を是認できなかったのは、当時母親へ送っていた手紙に綴られていたことで裏づけられているが、かといってどうすることもできず、ただ傍観者でい続けた。

戦争が終わって、1948年、再結成された女性法律家連盟のメンバーとなり、「自称フェミニスト」(ウェンディ・ロワーの表現)として、家庭内暴力を阻止するための法改正を行い、民事裁判所の裁判官となった。ナチ犯罪追及センターに出向いて、自分が目撃した情報を提供したが、拒否されたという。2010年、彼女はインタビューで、戦後になっても、元ナチス党員はどこにでもいたため、職場でもそのことは話せなかったと語っている。

 

 

 

イルゼ・ストゥルーヴェ(Ilse Struwe) 目撃者

vivanon_sentence少なくとも1万人いたナチスの秘書の1人。父親はナチス党員で暴力をふるい、彼女は14歳の時にドイツ女子同盟に入るが、自分を抑えつける家と村から出るために職業訓練校で秘書になる勉強をして、1940年、志願してフランスで秘書となり、翌年セルビアへ、その翌年ウクライナのリウネへ。ここで軍事務所の秘書として雇用された。

御多分に漏れず、彼女もユダヤ人たちになされている虐待や虐殺を見聞することになり、ある時、寮の窓から、ユダヤ人たちが連行されるとこめろを目撃する。ユダヤ人たちは鍋や金属のカップを鳴らしていて、自分たちが何をされているのを見てくれとアピールしていることに気づくが、彼女は何もできない。

事務所で働く女性職員の間でも、これについての話が出ることがあって、同情を口にする人たちもいたが、これに表立って反対する者はおらず、ストゥルーヴェも傍観者であり続けた。傍観者であるのみならず、ドイツ人たちの中には「シャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ心理)」も働いていた。

1942年、リウネからさらに東のポルタヴァに異動。スターリングラードの戦闘で次々と死んでいくため、男の職員たちもその補充のために戦地に送られ、代わりに死傷者の報告が連日届き、敵兵やパルチザンの処刑を撮った写真も送られてくる。彼女はそれに疑問を抱きながらも耐えて、1943年イタリアに異動となってこの苦から解放された。

1990年代になって彼女は回顧録を出版。それまで彼女はウクライナで見たことを一切人に話さなかった。

 

 

 

ザビーネ・ディック(Sabine Herbst Dick) 共犯者

vivanon_sentence1915年、ギゼーラ・ザビーネ・ヘルプスト(Gisera Sabine Herbst)として生まれ、高校卒業後、19歳の時にゲシュタポ本部で秘書として採用され、国家保安本部に異動(ゲシュタポの上部組織で、ハイドリヒが長官)し、1941年末ミンスクに赴任して、ゲオルーク・ホイザー(Georg Heuser)の秘書となった。ゲオルク・ホイザーはベルリンの州警察本部を経てナチスに入党し、特別行動部隊(Einsatzgruppen)Aを率いて数々の虐殺を指揮した人物であり、ザビーネ・ディックもこの虐殺に深く関与したことが推測される。

ザビーネ・ディックは同じミンスクの事務所に勤務していた親衛隊下士官と結婚し、戦後は2人ともこの事務所に勤務していたことを内密にすることを誓っていた。

戦後、ゲオルク・ホイザーは警察署に戻って警察幹部となっていたが、1万人以上の虐殺で告発され、うち1,103人の殺人が認められ、1963年、総計懲役48年が15年の刑にまとめられて有罪判決を受けた。

この時にザビーネ・ディックもたびたび尋問を受け、彼女は自己の保身とゲオルク・ホイザーを守るべく、肝心なことは「覚えていない」としらばっくれたが、それ以外では詳細な証言を提供して、結局はこれがゲオルク・ホイザーを有罪に追い込む重要な証言となった。

彼女は警察での尋問の際に、13歳の娘を連れてきた。母であることのアピールが有効であることを知っていたのだろうが、娘は「このくだらない厄介ごとに巻き込まれたこと」についての不満を叫び出し、娘によって両親ともどもナチス信奉者であり続けていることを明らかにした。娘、お手柄。しかし、ザビーネ・ディック自身は起訴されなかった。

 

 

ゲルトルーデ・ゼーゲル・ランダウ(Gertrude Segel Landau) 加害者

vivanon_sentence1920年にウィーンで親衛隊少尉の娘として生まれた。民間企業でタイピストをしたあと、1938年、ウィーンのゲシュタポ事務所に勤務し、1941年、ポーランドのラドムで、より高い地位を求めて、保安警察・親衛隊保安本部の高官の秘書になった。この時、親衛隊員ではないオーストリア人兵士と婚約したが、婚約者が前線に出ている時に、妻子のいる親衛隊指揮官フェリックス・ランダウ(Felix Landau)と恋仲になり、ゲルトルーデは婚約を破棄。フェリックス・ランダウはウクライナに赴任して、ユダヤ人の虐殺に従事。妻と別れて、フェリックス・ランダウを秘書に雇い入れ、ウクライナのドロホビチの自宅で同居。

フェリックスは路上でもユダヤ人を射殺するような男で、1942年11月には、部下とともに200人のユダヤ人を射殺。また、同年8月にはゲルトルーデととに自宅にいる時にバルコニーからともに鳩を撃ち、その際に地上で作業をしていたユダヤ人も射殺しているが、これはどちらが撃ったか不明。

これ以外にゲルトルーデはユダヤ人の小間使い2名に死を命じ、ユダヤ人の子どもを踏みつけて殺したと言われている。

1946年、フェリックスとゲルトルーデは離婚するが、オーストリアの犯罪捜査官たちはフェリックス・ランダウを逮捕し、そののちゲルトルーデを拘束して尋問。彼女は一貫して「思い出せない」とごまかしたり、ウソをついたりした。しかし、バルコニーにいたことを認めざるを得なくなった彼女はすべてをフェリックス・ランダウのせいにして、自分は止めたと主張を変えた。1947年、フェリックスは刑務所を脱走したため、これに対しての反証が挙げられず、ゲルトルーデの責任追及はなされずに終わった。

フェリックス・ランダウは1959年に再逮捕されて終身刑となり、1973年に赦免された。

 

 

 

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