松沢呉一のビバノン・ライフ

「クラブに行く」と「クラブへ行く」はどう違うか—格助詞の使い分け(1)[ビバノン循環湯 558] (松沢呉一)

10年近く前にメルマガに書いたものです。こういう話をよくメルマガには書いていたのですが、このタイプのテーマはあんまり調べることをしません。「ああでもない、こうでもない」と考えることが好きなのであって、自分の中での結論が出ると、そこでおしまい。数年ぶりにこれを読んで検索してみたら、関連する記事が見つかりましたので、加筆しておきました。それでもしっかりと調べているわけではないので、おかしなところがあるかもしれません。あとは各自で楽しむってことで。

言葉についての本は暇つぶしにもってこいですけど、込み入った内容だと頭に入って来ない。実のところ、今回、自分が書いたものを読み直しても、相当に考えないと理解ができませんでした。この手の話は受けが悪いのはそれが理由になっていそう。さらりとは読めないのです。飛ばしてください。

 

 

「クラブに行く」「クラブへ行く」の違い

 

vivanon_sentence安藤明のことを調べるため、マーク・ゲイン著『ニッポン日記』を改めて読んでいたら、こんな文章がありました。

 

 

大安クラブのことをきいた。アメリカ人たちが招かれて素晴らしい食い物や酒や女を提供されるところだ。その主人公は安藤という男で、クラブはいみじくも彼の名をとって名づけられている。すなわちダイは大であり、アンは彼の姓の最初のシラブルである。このクラブに行ったことのある或る将校の話だが、彼がそこへ行ったとき安藤は同時に六つの宴会をかけもって主人役をつとめていた。その将校が出席した宴会は少なくとも三万円はかかったろうと彼は言った。

 

 

食料のない時代に贅沢を尽くした料理を出し、土産を含めてのことにせよ、一回の宴会で、今で言えば数千万円を費やした安藤明ってどういう人間なのかの興味が高まるわけですが、ここでは安藤明についてはどうでもよくて、「このクラブに行ったことのある或る将校」「彼がそこへ行ったとき」にひっかかりました。どうして前者は格助詞が「に」で、後者は「へ」なのかなと。間が空いていれば気づかなかったかもしれないけれど、続けざまなので気になりました。

ニッポン日記 (ちくま学芸文庫)とくに使い分けているのでなく、たまたまなのだろうとも思われるのですが、あえて使い分けたとすれば、「このクラブに行ったことのある或る将校の話だが、彼がそこに行ったとき」にすると、短い文章の間に「に行った」が繰り返されるため、くどい印象になります。格助詞を変えることで、少しそれを緩和したのかも。

しかし、それを避けたいのであれば、もっと有効なやり方があります。「このクラブに行ったことのある或る将校の話では、そのとき安藤は同時に六つの宴会をかけもって主人役をつとめていた」にしてもいいでしょう。あるいは「或る将校の話では、彼がこのクラブに行ったとき安藤は同時に六つの宴会をかけもって主人役をつとめていた」でもすっきりします。「ある・或る」のくどさも解消されます。

 

 

どうも意味があるみたい

 

vivanon_sentenceたまたまだろうと思いながらも、よくよく検討すると、両者には使い分ける用法の違いがありそうです。

前者を「このクラブへ行ったことのある或る将校」とすると不自然な印象が生じます。ほんの気持ち程度の不自然さであって、使えないというほどではなく、厳しい出版社の校閲でもスルーだと思うのですが、「ここは素直に“に”を使えよ」ってカンジです。 対して後段では「彼がそこに行ったとき」にしても「彼がそこへ行ったとき」にしても、不自然な印象はあまりない。

「そこ」は「このクラブ」つまり「大安クラブ」であり、「に」の方が適切かとも思うのですが、「このクラブへ行ったことのある或る将校」ほどの無理矢理感はない。

この両者にはいくらかの違いがあって、その違いを背景にして、翻訳者は意識して、あるいは意識しないまま、「に」と「へ」にしているのかもしれません。

 

 

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