松沢呉一のビバノン・ライフ

「江戸に続く時代」と「江戸へ続く時代」はどう違うか—格助詞の使い分け(2)[ビバノン循環湯 559] (松沢呉一)

「クラブに行く」と「クラブへ行く」はどう違うか—格助詞の使い分け(1)」の続きです。

写真は新宿区内で適当に撮った、方向を指示する看板や道路名の表示です。

 

 

 

「江戸時代に続く」「江戸時代へ続く」

 

vivanon_sentence「クラブに行く」「クラブへ行く」のニュアンスの違いはわかりましたが、前回見た飯間浩明ことばをめぐる」では、「○○に続く」「○○へ続く」の違いをさらに説明しています。「江戸時代に続く時代」「江戸時代へ続く時代」では時間の軸が逆に向く(ことがある)と。たしかにそうです。

江戸時代へ続く時代」となると、戦国時代なり安土桃山時代なり、江戸以前の時代を指す。対して、「江戸時代に続く時代」は、同じ意味にもとらえられますが、明治以降の近代を指すことがあります。「江戸時代へ続く時代」では、その意味はない。

なんでこうなるのかについては「ことばをめぐる」でも説明はありません。

ここでの「に」は「クラブに行く」のような場所、方向を示す格助詞とは別の用法なのでは?

江戸時代へ続く時代」は方向を示していますが、逆に向く「に」は起点を示しているように思います。起点という言い方はしっくり来ないのですけど、便宜上、「起点」とします。終わった江戸時代を引き継ぐ時代ってことです。

優勝したブラジル代表に続け」は「来期こそは日本代表が優勝する」の意味であり、「ブラジル代表のあとに続け」ということです。「続く」に「に」を使うと、目的地、到着点ではなく、起点を示す意味に転じるのではなかろうか。「江戸時代から続く名刹」という場合の「から」と同じような意味に別表現です。

「続く」以外で同様のことが起きる動詞を探したところ、「始まる」が近い。「明治時代に始まる日本の近代」といった時は「に」です。これも起点です。

このことは、「に」が場所、「へ」が方向であることの違いを説明するひとつの根拠になりそうです。起点にせよ、着点にせよ、時間や空間におけるある特定ポイントを意味する「に」です。

 

 

「明治通りに続く道」のふたつの意味

 

vivanon_sentence「続く」を使って空間的方向を示す場合でも、駅のような点ではなく、道路という線になると、また意味が違ってきます。

四谷から新宿通りを西に、つまり新宿駅方面に向っている時に、「この道は新宿駅に続く道」と言います。「この道は新宿駅へ続く道」とも言えます。ただし、駅だと対象が狭いためか、「へ」はちょっと使いづらい感じもあります。「この道は山梨へ続く道」だったらいいんですけどね。

ローマへ続く道」だと、そもそもローマは広いし、遠いし、違和感はない。 あえて使う時は「新宿駅に続く道」での新宿駅は明確な目的地であるのに対して、「新宿駅へ続く道」はぼんやりとした方向であり、直接駅まで行くかどうかはわからん感じ。間に他の道路が入っていそう。

また、新宿駅から新宿通りを東に歩いている時に、「この道は明治通りに続く道」とも言えるし、「明治通りへ続く道」とも言えます。後者はやはりぼんやりと「〜方面に行く」というニュアンスになることが違うだけ。

しかし、「明治通りに続く道はどこか」という質問においては、明治通りを終着点ととらえて、「新宿通り」と答えることもできますし、「明治通りのあとに続く道」ととらえること、つまり起点ととらえることも可能性ではあります。大久保通りか、早稲田通りか、目白通りかわからないですけど、その先にある通りのことです。「江戸時代に続く時代」のふたつの意味がここでも起きるのです。

現実にはこういう状況はほとんどないので、通常、「明治通りに続く道はどこか」という質問においては、そこに至る道ととらえられて、「へ」と同じ意味になりますけど、「明治通りから続く道」という意味合いもそこには隠れていて、条件次第で浮上してきます。

 

 

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