松沢呉一のビバノン・ライフ

岩野泡鳴の自由恋愛論とその実践—女言葉の一世紀 155-(松沢呉一)

女が酒を飲み、博打をやっていた時代から、外出もままならなくなっていく過程—女言葉の一世紀 154」の続きです。

 

 

 

男と女の二元論では見えない現実

 

vivanon_sentenceここまで見てきたように、戦前の婦人運動は、女たちがこぞって社会進出や婦人参政権、男女平等を望み、男たちがこぞってそれに反対したのではありません。男女の二元論ではとうてい解釈ができないことが進行してました。

知識層に属する女たちの主張は多様であり、たとえば女子医大の創立者である吉岡彌生は国家主義の立場からの社会進出肯定論者です。ナチス万歳。欧米列強と対抗すべく、女たちも満州に行って前線に立てと。その立場からの婦人参政権賛成という考え方であり、市川房枝ら婦人運動の中の婦選運動一派もほとんどはこれですし、矯風会のような宗教的道徳運動とも野合していきます。この人たちの主張は戦時体制における国家の要請と合致していました。

女学校の創立者や校長であった女流教育家たちの根本にあったのは良妻賢母です。これもまた国家の要請であり、良妻賢母は女学校に求められた法的規定です。女は社会進出するのではなく、教養を身につけて結婚をし、子どもを産み、家庭を守ることでお国に貢献するという考え。よって政治や社会に関心を持つ必要はなく、育児・家事・家計についての知識さえあればよく、婦人参政権についても否定的な人が少なくありませんでした。

このふたつは重なる部分もあって、改良型良妻賢母主義が国家主義と合体していきます。

これらと対立したのが個人主義的な考え方です。英米的な女性解放の影響下にある人々です。青鞜社は思想集団ではないため、考え方の幅が広くて、山田わかが婦人参政権に反対したような呆れた例もありましたが、伊藤野枝や与謝野晶子は個人主義が強いの人々です。平塚らいてうはそこまで吹っ切れなかったところがありますが、この潮流の影響が強い人だと思えます。

とくに女流教育家たちは個人主義的「新しい女」を警戒し、嫌悪しました。津田梅子は良妻賢母を否定しながら、古いキリスト教道徳の影響が強く、やはり「新しい女」を強く否定し、妨害をしました。

といったばらつきがあって、これらを見るだけでも「女」とひとくくりにはできないことがわかりましょうし、男も同じです。国家主義的な社会進出肯定論者に巌谷小波がいましたし、良妻賢母派には林田亀太郎のような人たちがいました

大杉栄のようなアナキストが「新しい女」を肯定的に受け入れたのは当然として、教育家でも湯原元一・東京音楽大学校長のように、個人主義の立場を尊重する人たちがチラホラとはいました。日本で最初に欧米的な婦人解放思想を表明したのは福沢諭吉であり、その流れを汲む人たちです。女学校ではその立場はとりにくかったのですが、それでも女学校の男の教育者の中にわずかには個人主義を理解する人々がいました。なぜかこれは男ばかり。

※下に出てくる生田長江の著書『婦人解放よりの解放』。生田長江は、既存の女流教育者たちには批判的であると同時に男女の差別(この差別は区別の意味)を完全になくす、あるいは極わずかにできるとする立場の婦人解放論にも批判的です。男女は生殖とそれに伴う決定的な違いがあることを前提としない論は不毛であるといった立場。また、家事が馬鹿げた仕事だという考え方も否定しているのですが、行きつくところは山田わかと変わらない印象です。

 

 

青鞜の講演会で演説した生田長江、岩野泡鳴、馬場孤蝶

 

vivanon_sentenceというのがここまでのおさらいです。

青鞜」は女による女の表現の場だったわけですが、これを支持、支援する男たちは多数いました。男女の二元論からすると、そんなところに目が行かないのは当然として、現在、その周縁の男たちの果たした役割はあまり顧みられていにないように思います。

このことが顕著に現れたのは1913年(大正3年)2月15日の青鞜講演会です。創刊当初は文芸同人誌的な色彩が強かった「青鞜」がはっきりと女性問題をテーマに据えた編集方針になっていく中で開かれたこの講演会は画期的なものでした。

すでに自由民権運動の時代に、演説をして投獄された岸田俊子(湘煙)のような先駆的闘士がいましたが、女が演説をすることはなお珍しかった時代です。被選挙権がないですから、立候補者として演説することもない。また、つねに弾圧されるわけではないにせよ、治安警察法第五条によって、女が演説会を主催すること、また、参加することが禁じられていたため(1922年に改正)、いつでも官憲が中止させることができました。

青鞜社としてはリスクを負った賭けです。人前で話した経験がない女たちだけでは不安ですし、人が集まらなければ話題にもならない。そこで白羽の矢が立ったのは、「青鞜」に好意的だった生田長江岩野泡鳴馬場孤蝶でした。むしろ彼らこそが積極的に講演会を開くべきであると平塚らいてうらをせき立てたようです。それに加えて伊藤野枝岩野清子、平塚らいてうら、青鞜社のメンバーが演説をするという趣向になっていました。

 

 

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