松沢呉一のビバノン・ライフ

戦時は自殺が減る現象と収容所で自殺がほとんどなかったこととの関わり—E.A.コーエン著『強制収容所における人間行動』[2]-(松沢呉一)

強制収容所では自殺者がほとんどいなかった—E.A.コーエン著『強制収容所における人間行動』[1]」の続きです。

 

 

 

 収容者が自殺を選択しなかった理由

 

vivanon_sentence前回確認したように、ナチスの強制収容所では自殺は少なかったと書かれていたことが、E.A.コーエン著『強制収容所における人間行動』でもっとも私が気になった点です。

「ナチスの強制収容所は言われているほどひどい環境ではなかった」なんてことはあり得ない。

「なぜあれほどまでに絶望的な環境だった強制収容所で自殺者が少なかったのか」という疑問については本書に多くの見解が出されています。

人は死を実感すると生きる本能が働いて、恐怖が自殺を押しとどめるといった解釈をしたくなりますが、コーエンはそれを否定して、こう書いています。

 

私の考えでは、抑留者の自殺を妨げたものは、死に対する恐怖ではなかった。それでは彼の自殺を押しとどめたものは何であったのだろうか。私に云わせれば、生きていくことに、もはやなんの希望も見出せなくなった抑留者にとっては、自ら積極的に自殺する必要はなかったのである。

 

収容所では、誰の目にも自殺とわかる首吊りや有刺鉄線に飛び込むような方法をとる必要がありませんでした。そうとわかりにくい自殺が可能だった、あるいは自殺しようとする前に死ねたのです。

生きて行くのにギリギリの食事しか与えられず、そのために体力が維持できない。そうなると、労働力として使えないと判断されてガス室に送られるリストに番号が記入されます。

食べなければ死ねる。食べていたって動けなくなれば死ねる。人は希望を見失って絶望し、その果てに自殺を選択するわけですが、収容所では絶望した段階で、黙っていても、死が向こうからやってきます。

あるいは自暴自棄になってSSや看守に楯突くだけで殺されます。ここには積極性がありますが、やはり自殺にはカウントされません。

自身でも自殺であると認識できないような形で死んでいった人たちが無数にいたってことです。

オランダ語版

 

 

日本の捕虜収容所との比較

 

vivanon_sentenceこういった例が多数あったことは間違いなさそうです。しかし、それだけでは説明がつかない。この本では、日本の捕虜収容所が比較として頻繁に取り上げられていて、自殺については日本の収容所でも同じく少なかったことが指摘されています。

日本の収容所は時に「ナチスの収容所がいかにひどかったか」を例証するものとして出されていて、これを見る限り、比較として日本の収容所の方がましでした。すぐさま殺されるようなことはなく、食糧事情もそこまではひどくない。収容所にもよりけりで、戦地の収容所、戦争末期の収容所は一般に劣悪な環境になりやすいのですが、最初から死んでもいいもの、殺すものとしていたナチスの強制収容所に比べればずっとまし。

ナチスドイツの強制収容所が極悪すぎたのですが、この比較はバランスが悪くて、ドイツでも英米の捕虜収容所は強制収容所とはまた違っていたことはすでに見た通りで、ナチスドイツにおいても殺すことが前提にはなっていなかった捕虜収容所の環境はまだしもよかったのです。

よって日本の捕虜収容所と絶滅収容所たるアウシュヴィッツを比較するのは適切ではないケースもありましょうが、自殺については有効な対照です。カウントされない自殺が起きにくい日本の捕虜収容所でも自殺がほとんどなかったことは、収容者の精神状態において共通の何かがあることを示唆します。

※Elie A.Cohen『The abyss;: A confession』。1973年に出たもので、こちらは自身の体験をよりストレートに書いたもののようですが、邦訳は出てません。

 

 

戦時に自殺者が減少する傾向

 

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E.A.コーエン著『強制収容所における人間行動』では、そのことに触れられていないですけど、収容所での自殺が少なかったことは、戦時に自殺が減少することにリンクしているのだろうと思われます。

 

 

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