松沢呉一のビバノン・ライフ

『読んでいない本について堂々と語る方法』の仕掛け—本にまつわる権威と幻想[2]-(松沢呉一)

『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んで堂々と語る—本にまつわる権威と幻想[1]」の続きです。

 

 

 

脚注で知る『読んでいない本について堂々と語る方法』の仕組み

 

vivanon_sentenceピエール・バイヤール著読んでいない本について堂々と語る方法』は相当にひねくれた本で、冒頭から、「ここに書いていることはどこまで著者の本心なんだろう」と迷いが生じて、疑いながら読まざるを得ないようになってます。

「ああ、こういう本なのか」とはっきり気づいたのは、文中に具体的な本のタイトルが出てくると、その本についての脚注がそのページの袖に出てきて、それを眺めている時でした。

その内容は以下の記号で示されます。

 

(未) ぜんぜん読んだことのない本

(流) ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本

(聞) 人から聞いたことがある本

(忘) 読んだことはあるが忘れてしまった本

 

◎ とても良いと思った

◯ 良いと思った

× ダメだと思った

⊗ 全然ダメだと思った

 

「全然ダメだと思った」は、原文では×をふたつ重ねた記号ですが、見つからないので⊗で代用。文字化けしているかもしれないですが。

 

 

架空の本の内容を評価する

 

vivanon_sentence多くの本で、注は巻末、あるいは章の最後にまとめて出します。この本ではわざわざ同じ見開きで、脚注の形で、意味がさしてあるとは思えない「文中内書籍」についての紹介がなされているのは、「ここをちゃんと読めよ」ということだと受け取りました。通常、私も何かひっかかることがない限り、後ろに小さい文字でまとめられた注は読みませんから。

素直な読者でありますから、その意図通り、脚注が出でくるとしっかりチェックしていたのですが、ウンベルト・エーコ著『薔薇の名前』を取り上げている章で、『薔薇の名前』の中に登場する本のタイトルまでが脚注に出てきます。この本は架空のタイトルだと思えます。

実在するのだとしても、小説の中に出て来るだけの本ですから、わざわざ触れるようなものではありません。しかも、「」となっているのに、×がついてます。

なるほど、これは本書の趣旨を踏まえたシャレなのだなと気づいて、また、これはこの本を理解するキーかもしれないと思って以降は書き留めてました。

せっかく全部書き留めたので、以下に出しておきます。

原文では著者名が出ていないものもありますが、わかる範囲で穴埋めしました。

 

 

P023 「流・聞」◎ ローベルト・ムージル『特性のない男』
P035 「聞」◎ ジェームス・ジョイス『ユリシーズ』
〃   「流・聞」◎ ホメロス『オデュッセイア』
P043 「聞」◎ マルセル・プルースト『サント=ブーヴに抗して』
〃   「流・聞く」◎  〃  『失われた時を求めて』
P069 「流・聞」◎ ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
〃   「未」× 『キュプリアーヌスの響宴』
P079 「未」◯ アリストテレス『修辞学』
P083 「忘」◯ ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』
P091 「流・聞」◎ ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』
P093 「聞」◎ ウェルギリウス『アエネイス』
P105 「流」◎ グレアム・グリーン『第三の男』
P109 「未」◎ バック・デクスター『サンタフェの孤独な騎手』
P109 「未」 ベンジャミン・デクスター『曲がったへさき』
P113 「未」◯ ゼイン・グレイ『紫よもぎの騎手たち』
P121 「忘」× ピエール・バイヤール『ハムレット事件を捜査する』
P125 「流・聞」◎ シェイクスピア『ハムレット』
P145 「流」◯ ピエール・シニアック『フェルディノー・セリーヌ』
〃   「未」× ジャン=レミ・ドシャン/ガスティネル『褐色のジャヴァ』
P179 「流」◯ デイヴィッド・ロッジ『交換教授』
〃   「流」◯   〃  『小さな世界』
P189 「流・忘」× ヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』
〃   「流・聞」◎ ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』
〃   「聞」◎ チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツウィスト』
P191 「聞」◎ ジョン・ミルトン『復楽園』
〃   「未」× デヴィッド・トロイヤー『ハイアワサ』
P203 「流・聞・忘」◯ バルザック『幻滅』
〃   「未」 リュシアン・シャルドン『ひなぎく』
〃   「未」◯ リュシアン・シャルドン『シャルル九世の射手』
〃   「未」× 『エジプト旅行記』
P205 「未」 『象徴をめぐる考察』
P227 「流」◎ 夏目漱石『吾輩は猫である』
P231 「未」× フレデリック・ハリソン『セオファーノ』
P243 「流」◎ 夏目漱石『草枕』
P249 「未」◯ キケロ『書簡』
P249 「未」◯ ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』
P249 「未」◯ 『ベンヴェヌート・チェッリーニ自伝』
P249 「流」◎ サン=シモン『回想録』
P249 「未」× グロート『ギリシア史』
P251 「流」◎ オスカー・ワイルド「芸術家としての批評家」
P259 「流・聞」◎ フロベール『ボヴァリー夫人』

 

見逃しがあったらごめんなさい。二重カギカッコ(『』)ではなく、ただのカギカッコ(「」)になっているのがあるのは原文通りで、本のタイトルではなく原稿タイトルです。

私の勘通り、これを抜き出したことには大いに意味がありました。これは単なるシャレではありませんでした。

※Joos van Cleve「Virgin and Child

 

 

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