松沢呉一のビバノン・ライフ

読んでいない本・観てない映画・聴いていない音楽を語ることの条件—本にまつわる権威と幻想[4]-(松沢呉一)

『読んでいない本について堂々と語る方法』はフィクションである—本にまつわる権威と幻想[3]」の続きです。

 

フィクションだから成立する強引な論

 

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「本全体がフィクションである」とまでは読んでいない本について堂々と語る方法』の翻訳者(大浦康介)は書いていないですが、ここで展開されるのは、現実の世界とは少しずれたヴァーチャルな世界での論です。

素材として使われているのは多くがフィクションです。オスカー・ワイルドと文化人類学の報告書(論文?)、モンテーニュの逸話など、いくつかは違いますが、フィクションはフィクションという設定で成立するものでしかありません。

その前提のもとで読んでいない本について堂々と語る方法』で展開される論は、現実に照らすと、相当に強引です。

ここまで見てきた本書の主張をざっくりまとめると、

「本を読んだ」と人は言うが、その内実は相当にいい加減で、本によっては何度も繰り返し読む。一方では飛ばし読みもあって、実際には半分も読んでいないことがある。全部読んでいても、右から左に流していることもある。同じ読み方をしたとしても、当然、人によって理解力は違い、内容を一切覚えていないこともあるし、一部しか覚えていないこともある。その内容を飛躍させたり、改竄させたりして、別のものとして記憶していることもある。そもそも書かれていることのすべてを記憶しているなんてことは著者でさえないのだから、「本を読んだ」「読んでいない」の間の境界も曖昧であり、結局のところ、本を読んで批評する行為も、本を読まないで批評する行為も、予め批評する側にある「内なる本」に依拠していて、本を口実にして、それを語っているだけなのだ。

といったものになります。さらりと読むと納得しそうになりますが、飛躍があります。

※Thomas Rowlandson「Inside View of the Public Library, Cambridge

 

 

一切読んでない本を読んだとは言えない

 

vivanon_sentence言葉はどうやっても曖昧さを含むわけで。例えば「行く」という言葉も同じような曖昧さを含みます。

「名古屋に行ったことがある?」という質問をして、「あるよ」と答えた人に、その中身を問うと、「本社が名古屋なので、月末に必ず会議で行っている」「名古屋の人と長距離恋愛をしたことがあるので、二ヶ月に一回は行っていた」「母方の祖父母が名古屋なので、子どもの頃は夏休みや冬休みは名古屋で過ごした」「修学旅行で一泊した」「一宮に行った時に、ちょっとだけ名古屋に立ち寄った」「一ヶ月だけ名古屋のヘルスで働いた」「車で大阪に行った時に名古屋のパーキングエリアで食事した」など、全員が全員違うでしょう。

その記憶している程度も全員違うのだし、中にはまるで名古屋のことを記憶していない人もいます。

そこまでは事実として、「場所を語るのは、自身の中にある『内なる地図』を語っているのだから、行ったことのない場所に行ったと言ってもいいのだ」とはならない。

「行った」は「そのエリアに足を踏み入れた瞬間に成立する。ただし、鉄道や車で通り過ぎただけでは不足しており、通常これを“行った”とは言わない。また、“行く”は今いる場所を起点として、別の場所へ移動することを意味するため、その地を起点にしている場合は通常“住んだ”と言い、“行った”は使わない」といった定義が可能であるのに対して、「読む」はより曖昧ではありますが、開いたこともない本を「読んだ」とする用法はどこの言語でも許されていないかと思います。

この強引な論を押し進めていく力技が本書の魅力ですけど、これが成立するのはフィクションを根拠としたフィクションだからです。取り扱っているのがフィクションであることによって、無理矢理な話のはずなのに、説得させられてしまうし、本書自体がフィクションの土台にあるために、突っ込めない感もあって、本書はフィクションという聖域の上に成り立っているのだとも言えます。

※Jean Honoré Fragonard「Allegory of Vigilanceca. 1772

 

 

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