松沢呉一のビバノン・ライフ

江戸末期から明治半ばまでの日本では虎列刺(コレラ)で年間10万人が死んでいた—新型肺炎(COVID-19)について触れにくい事情[余談編 1]-(松沢呉一)

新型肺炎(COVID-19)について触れにくい事情」シリーズの資料編みたいなものです。タイトルだけ見ると毎年10万人亡くなっていたようですが、以下を読んでいただければおわかりのように、大流行の年は死者10万人以上ってことです。

 

コロリからコレラへ

 

vivanon_sentenceコレラは古くから、インド、バングラデシュに存在していた病気で、1817年にカルカッタ発の大流行があって、駐留していた英軍8万人のうち7千人が感染して、英軍は一時撤退。

ここから7年の間に世界中に広がり、米国には1819年に到着。海外との交流が限定的であった日本にも、文政5年(1822)に中国を経由したオランダ船によって上陸します。

まず長崎で583名が亡くなっていて、関西にも飛び火して大阪で数千人が死亡。全国では1万人以上亡くなったと言われています。これが日本における最初のコレラ禍です(大流行を「10万人規模で死者が出たもの」とする場合はこれを含めず、安政5年を第一次の流行としている)。

続いて安政5年(1858)、米国船のミシシッピー号から長崎に持ち込まれて大流行。大流行としてはこれが第一次。この段階では、コレラ菌がコレラの原因であることはわかっていなかったわけですが、それでもその対策は各国が編み出していて、なにしろヨーロッパでは黒死病(ペスト)の歴史があります。その知恵が日本にも入ってきており、芳香散芥子泥という薬も販売されています。

また、民衆は加持祈祷に頼ったり、「疫病神送り」として、病気を人形に見立てて、これを郊外に送る「療法」が流行り、鳴りものを使って追い出そうとするに至って、幕府はこれを禁止。

コレラの流行時にコロリ(古呂利)という俗称が広がっていていて、これはコレラが転じたものとしてあるものが見られるのですが、富士川游著『日本疾病史.』上巻によると、コロリはもともとは卒倒することを意味しました(あるいは「死ぬ」の意味でしょう)。「すってんころり」「イボコロリ」の「ころり」です。流行時に「見急」「横病」「鉄砲」「三日コロリ」といった名称が登場し、「コロリ」が定着したとのことです。

この「三日コロリ」という言葉は文政5年の流行の際に大阪で出てきた言葉で、もしコレラという言葉が直接にコロリに転じたのであれば「三日コロリ」という名称はたしかにおかしい。この言葉はコロリ単体ではコレラのことを意味しなかったことを示しています。

おそらくコレラという言葉が知られるようになる前に、この俗称が使用されるようになり、この言葉が残ったのは、やはりコレラと類似しているからではないかとも思いますが、経緯としてはこの通りなのでしょう。

明治に入ってからは虎列刺(コレラ)に統一されていき、明治まではこの漢字表記が一般的で、それ以降もしばしば使用されています。

The history of cholera

 

 

明治12年にも10万人以上が死亡

 

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明治10年(1877)、またしても世界的な大流行を見るに至り、同年9月から、日本でも患者数1,618名、死亡者1,227名を記録。12月には沈静化するのですが、以降も散発的に発生して、明治12年(1879)になると爆発的に感染者が増え、患者総数16万2220名、死亡者は10万5627名に達しています。死亡率65パーセント。

一桁まで数字が出ているのは明治8年(1875)に、伝染病患者と死亡者を医師が届け出る規則が出来たためです。ただし、すべてが届けられたわけではないため、実数はさらに多いと思われます。

『女工哀史』にもコレラの話は出てきて、感染した女工たちが殺されたという話は俄には信じられないのですが、それに通じる話が大阪府編『虎列剌予防史』(大正13年)に出てました。

 

 

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