松沢呉一のビバノン・ライフ

「童貞。をプロデュース」を観ずに語れる範囲—本にまつわる権威と幻想[5]-(松沢呉一)

読んでいない本・観てない映画・聴いていない音楽を語ることの条件—本にまつわる権威と幻想[4]」の続きです。

 

 

 

批評対象の著作をすべて読むことは実質不可能

 

vivanon_sentence「本や映画などの表現物を語る際、どういう場合にどこまで読んだり、観たりしている必要があるのか」について、私は前回書いたように考えているのですが、これについての考え方は相当に幅がありましょう。

高橋源一郎の場合は、インタビューする相手、批評する対象の全著作を読むことを課していて読んでいない本について堂々と語る方法』の表層で展開される論の真逆です。この姿勢は立派だとは思いますが、誰でもできることではないのだし、完全にそうすることはほぼ不可能です。

多くの場合、本になっているものは、その著者が書いていることの一部です。人気作家であれば、書いたものはことごとく単行本になるでしょうけど、例えば私であれば、単行本になっているものよりなっていないものの方がはるかに多く、以前、ネットに書いていたもの、メルマガに書いていたもの、「ビバノン」に書いたことのすべてに今から目を通すことはほとんど不可能です。

個人ならまだしもとして、講談社、新潮社、集英社を語る場合に、その全出版物に目を通すになんてことは不可能。

「すべてを読む」なんてことは普遍的ルールになりえず、そうしないことをもって非難されるべきではありません。一般にできるだけ読んだ方がいいとは言えても、あとはケースバイケースでしょう。

※Gilles Demarteau, the Elder after François Boucher「Young Girl Reading “Héloise and Abélard”」 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート( National Gallery of Art)より

 

 

「あとは本を読め」と言うしかないのだけれど、そう言い切っていいのかどうかの迷い

 

vivanon_sentenceこの問題についてはつねに私も迷いがあります。

たとえばこの「ビバノン」でも、講読者以外は全部は読めない。以前は、Facebookの自分のアカウントでも告知をしていたため(むしろ、そちらがメイン)、全部は読んでいない人たちのコメントがつきます。それで問題がないこともあるのですが、有料部分に踏み込まざるを得ない質問や意見がコメントされることがあります。

その場合に有料部分に書いてあることまでを説明すると、有料にしている意味がなくなりますし、その人のために改めて説明してあげなければならない義理もないですから、「後半に書いています」と言うしかなく、「全部読んでない人しか意見は言えないのか」ってことになってしまいます。

私と関係のないところでやってくれるのならいいのですが、自分のところにコメントがつくと無視もしにくい。公開しているパートに限定したコメントならいいのですが、全部を読まないと、公開しているパートに限定されているテーマかどうかもわからないのだし。

その後、「ビバノン」専用アカウントだけで告知するようになって、このアカウントは講読者用と位置づけているため、そういうコメントは激減しました。講読者以外の目に触れないようにするのがひとつの解決法ではあるのですが、今なおこれはどう考えていいのか私自身わかりません。

とくに本の場合は宣伝もしたいわけで。

こういうことはTwitterだともっと起きやすい。単行本に書いてあることの一部を書いた時に、なんか言ってきた人がいたら、「だから、本に全部書いたので読んで」と言うしかないのですが、現にTwitterに書いたことの範囲で説明すべきとも言えて、どうしたらいいもんやら。

※H. Lyman Saÿen「Child Reading」 Smithsonian American Art Museum and its Renwick Galleryより

 

 

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