松沢呉一のビバノン・ライフ

毒婦・花井お梅とベルツの接点—ベルツ花子の見た日本とドイツ[2]-(松沢呉一)

百年以上前の日本がよくわかる『欧洲大戦当時の独逸』—ベルツ花子の見た日本とドイツ[1]」の続きです。

 

 

 

芸者を広告に使用することに憤慨する日本人留学生

 

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ペルツの母親はドイツらしく熱心なプロテスタント信者で、ベルツ自身もドイツにいる頃はそうだったのですが、親元を離れた影響なのか、日本の影響なのか、決して堅物ではなく、花子もそうです。

そこがイザベラ・バードとの決定的な違いであり、ベルツ花子著『欧洲大戦当時の独逸』にはイザベラ・バードでは決して書けなかった明治の日本が記録されています。

ベルツと花子の寛容さは以下のエピソードでもわかります。ドイツに帰国してからの話ですけど、話の流れで第三部に出てくるエピソードです。

日本にいる外国人でも、外国にいる日本人でも「調子の変った方」がいて、シュトゥットガルトのベルツ家に、朝の8時にやってきた日本人がいます。

ミュンヘン市に留学していて、近々日本に戻る予定だという彼は、日本茶の広告に必ず芸者の絵が使われていることに憤慨していて、「醜業婦の標本」を剥がすように弟さんに伝えて欲しいと言います。ベルツの弟は弁護士です。

この人物もドイツに法律を学びに来たそうですが、どこに行っても待遇が悪く、居心地が良くないので帰るとのこと。

対してベルツは「芸者は立派に国税を納め公然稼業を致し居る者も、日本の芸者という名目は何方(いづかた)へ参らうと知らぬ者は居りません、貴方のやうな事を御仰りますと、日本の有名な浮世絵も取扱ふは勿論、展覧会等に陳列する事も出来ませんネ」(文章が変ですが、原文通り)と諭しました。

あとでわかったところによると、彼は揉め事を起すため、友人たちが話し合いの末、日本に帰ってもらったのだそうです。

いつの時代も海外生活のうちに頭がおかしくなる人はいますから、そういう人だったのかもしれないし、醜業婦という言葉遣いからして、矯風会あたりの影響を受けた狂信的クリスチャンだったのかもしれない。あちらがキリスト教の本場なのに。

Japón, 1915. ネットを探したら、これが出てきました。しかし、これは半玉(舞妓)をイメージしたものではないでしょう。

 

 

根津遊廓が転居した理由になった花火大会

 

vivanon_sentenceイザベラ・バードは遊廓の存在を嫌悪とともに書いていて、具体的なことは一切書いてませんでしたが、花子はいいとも悪いとも言わず、洲崎遊廓の前身である根津遊廓について書いています。

根津遊廓でも花魁道中が行なわれ、明治17年、18年には花火大会が盛大に行なわれ、多くの人が集まるのですが、その結果、大学の附近で遊廓が賑わうのは風紀上よくないということで洲崎に移転になったとあります。根津は駒場の隣です。移転したのは明治21年(1888)年のことでした。

芸者についての話も何度か出てきます。ベルツが芸者を擁護したのは、芸者のいる座敷に出入りしていたためでもあるのでしょう。

同じく東京大学教授であった医学博士・樫村清徳の誘いで、両国にベルツ夫妻が涼みに行った時のこと。約束の場所(おそらく料理屋)に行っても誰もいない。ただ一人、老芸者だけがいる。話しかけたところ、昔話になって、その話が面白くて時を忘れて聞き入り、やがて皆が集まってきて、樫村に「(話が面白くて)皆様が来て呉れない方が好かった位です」と行ったら、「さうであらうと思って、此の老婆(ばあ)さんを頼んで置いたのである」。その話を聞きたかった。

※ベルツ四兄弟。エルヴィン・フォン・ベルツは中央後ろかと思いますが、弟がどれかわからん。

 

 

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