松沢呉一のビバノン・ライフ

ドイツで役に立った日本の発明品カイロ(懐炉)—ベルツ花子の見た日本とドイツ[5]-(松沢呉一)

子宝に恵まれる温泉の効用は乱交によるものだった—ベルツ花子の見た日本とドイツ[4]」の続きです。

 

 

わかりにくく面白い第一部

 

vivanon_sentence

ここから、わかりにくく面白いベルツ花子著『欧洲大戦当時の独逸』の第一部です。

この本には記録としての難点があって、1回目に書いたように、関東大震災で家が焼けてしまって、あらかた資料が失われたために記憶違いがあるのもそうですけど、その場に著者がいたのか、ベルツに聞いたのかが区別されていません。後者については当然間違いが起きやすい。

旅行に花子が同行することもあって、一緒にいたことがわかるように記述されていることもありますが、あとはだいたいベルツから聞いた話だろうと思います。学術的興味があったためでもあるでしょうけど、夫婦間で下ネタも話していたわけです。大陰嚢の話乱交祭りの話も。それを妻が著書に書く。そういう夫婦。

ベルツの日記や手紙をまとめた『ベルツの日記』がドイツで出され、岩波文庫から邦訳が出ているので、正確なことはそちらと照らし合わせる必要がありますし、これから書いていく話は、そちらと照らし合わせると私の思い過ごしである可能性もあるかもしれないですが、この謎解きの作業が面白かったので、そちらを読む前に出しておきます。

 

 

本書の特筆すべき視点

 

vivanon_sentence

日本はドイツとの関係が深かったとは言え、帝政時代にドイツで長期過ごした人はさほど多くないかと思います。留学生や外交官くらいか。ベルツ花子のようにドイツ人と結婚した例はあれども数は少ないし、記録が残されないので、この目線での記録は相当に珍しい。「この目線」というのは、政治、ジビネス、学術のいずれにも重きを置かない生活の視点という意味です。

今の時代はたいていの場所で日本人コミュニティがあるので、その中で完結してしまう人たちも多いものです。学生でさえも。

ベルツ花子も日本人外交官やその家族らとの交流がありますが、夫はドイツ人ですから、ドイツ人コミュニティにも属しています。細かいことになると彼女のドイツ語では通じなくて困り果てたりしていますが、ふだんはドイツ語を話さざるを得ない。とくにベルツが亡くなって以降はそうするしかない。

何日か遅れで届く日本の新聞を読んではいますが、日本とはほとんど隔絶した生活です。

その特殊な視点で見たドイツです。その分、第一部では観光的な話はまったく出てこないですけど、そういう本は当時新聞記者などが多数出していますので、ここでは不要。戦時下の話ですが、戦況についてもまったく触れられていません。あくまで見たもの、聞いたものを綴っています。

また、第一部にはベルツもあまり出てきません。1913年、ベルツはシュトゥットガルトにて病死します。欧州戦争は始まってましたが、生きている間は戦火がまだ激しくなかったのか、第一部ではベルツが亡くなったあとの話が中心で、下ネタも出てきません。してみると、下ネタが好きだったのは花子ではなくベルツか。

※Wikipediaより「Berlin Friedrichstr Blick n Sueden Central-Hotel Hotel Silesia (um 1905)」。花子がドイツに渡った頃のベルリン

 

 

ドイツでカイロが大人気

 

vivanon_sentence戦争にからめつつ、さまざまな話を書いていて、「へえ」と思わせるエピソードが出てきます。たとえばカイロです。

カイロ(懐炉)って日本の発明品なのですね。今は使い捨てカイロが主流ですが、その前はベンジンを使った白金カイロでした。上の世代では必需品だった人が多いでしょう。これは大正時代の日本人の発明で、今も製造されています。

 

 

next_vivanon

(残り 1998文字/全文: 3545文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ