松沢呉一のビバノン・ライフ

ナチスを生み出したドイツの国民性とその克服—ベルツの日記[6](最終回)–(松沢呉一)

個人主義が薄いドイツと個人主義がない日本—ベルツの日記[5]」の続きです。

 

 

 

 

日本人の自制は他者の視線による

 

vivanon_sentence日本人的な自制については、以下の記述がよく表していようかと思います。

 

 

まったく神秘的な草津温泉の効能を、最も適切に表しているのは、日本の有名な小うた「お医者さまでも草津の湯でも、恋の病はなおりゃせぬ」である。普通あれほど難病の癩病ですら、往々にして全治することがあり、少なくともたいていは快方に向うのを常とする。最初に草津を訪れて以来、自分はこの地に非常な興味を覚え、土地の人々に各種の改革を提案した。ところが、伊香保やその他どこの日本の温泉でもそうであるように、土地の人々は、見たところ全く仲が善いようではあるが、その実、妬みと争いとで日々を送っている有様だった。

 

 

誰かが得をすることを嫌い、足を引っ張り合い、牽制をし合って何も進まず、結果、そのコミュニティ全体が損をするのは今でもよくあることです。中の誰かが得をすれば全体が恩恵を受けて、次のチャンスが自分にも回ってくるとは考えず、全体が損をしても、それが全体である限りは安心をしてしまう。

純然たる個人の判断で抑制するのではなく、監視し合うことで互いに抑制する結果が日本人の自制だろうと思います。あるいは監視されているわけでもないのに、「こんなことをして誰かに見られたらまずい」といったように、監視の目を自ら作り出して抑制していきます。

これがものすごくよく出るのがSNSだと思います。

SNSも世間として機能して、その中に馴染む意見だけを言う。クラスターに合わせて自分の意見は言わない。そもそもクラスターの意見を「自分の意見」と錯覚する考え方をするだけの人たちが多いように見受けられます。クラスター内の誰かが言ったことにふりかけをかけて再生産していく。

クラスター内で多数を敵にすることを考えていても口にしない。自分の考えはおおっぴらには言わず、こっそり裏で言うのが流儀です。結果、身内と外とのダブルスタンダードが進行します。

周りに強いられているような気がしても、現実には自身でそうしているだけのことですから、実は主体的であり、純然たる自制なのだとすることも可能ですが、いったん外部の視点を仮想している点が純然たる個人の判断との違いです。

※なんぞ草津温泉について書かれた面白そうな本はないかと国会図書館で検索したら、松崎天民の『青い酒と赤い恋』(大正4年)がひっかかってきました。この本は読んでないので、さっそく掲載の「草津温泉の夢」を読みました。女中と恋に落ちる話です。松崎天民だと芸者や酌婦の話が出てきそうですが、草津温泉はおもに療養・静養のための温泉なので、そっち方面は盛んではなかったのかも。当時は原稿を書くために2ヶ月も温泉に逗留できたのがいいなあ。今でも売れっ子作家だったらできるのか。でも、いいかなあ。恋でもしないと退屈しそう。

 

 

個人主義は個人で実践するもの

 

vivanon_sentenceドイツは個人主義の薄い国だとするなら、橋口さんの言っていたことはなんだったんだろうとの疑問が生じるのですが、これはナチスの反省から生まれた考え方を実践しているのではなかろうか。個人が決定することができず、上に従い、ルールを疑わずに従う社会だからナチスが登場したことを踏まえ、個人で判断するように制度を整える。

もしそうだとしたら、「ヒトラーという狂人がやっただけ」でごまかさず、国民自身の責任を直視したものだと言えます。

 

 

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