松沢呉一のビバノン・ライフ

死をもって毒ガス兵器に抗議したクララ・イマーヴァール—祖国に裏切られたユダヤ人化学者[3]-(松沢呉一)

海から金を採取しようとしたフリッツ・ハーバーを援助した星一—祖国に裏切られたユダヤ人化学者[2]」の続きです。

 

 

 

極めつけの愛国者がいられなくなったナチスドイツ

 

vivanon_sentence敗戦から立ち直ったドイツには、フリッツ・ハーバーに資金援助をする企業が多数あって、ハーバーの本来の研究は順調に進んでいくのですが、やがてナチスの迫害が強まり、1933年、カイザー・ヴィルヘルム研究所に対してもユダヤ人の研究者を解雇するように命令が下ります。

とくにユダヤ人を優遇していたわけではなくとも、優秀な科学者にはユダヤ人が多かったのです。毒ガス兵器をともに開発したジェームス・フランクもマックス・ケルシュバウムも、防毒マスクを開発したリヒャルト・ヴィルシュテッターもすべてユダヤ人です(この時点では彼らはすでに研究所にはいなかったよう)。

当時のドイツではユダヤ人はわずか1パーセント程度でしたが、迫害されてきた歴史から、ユダヤ人たちは子どもに高い教育を受けさせることをモットーとしていて、なおかつそうするだけの経済的な余裕がありました。

フリッツ・ハーバー自身は戦時の功績が認められて、所長であり続けることができたのですが、ユダヤ教を放棄しても、ユダヤ人であることの自覚は強く、名指しされた研究員の就職先を国外に求め、自身も抗議の辞表を提出。

これに対して複数の国からの招待があり(日本からも)、彼はイギリスに移住して、ケンブリッジ大学に赴任します。

そこで充実した日々を送るのですが、イギリスには「毒ガス兵器の父」としてフリッツ・ハーバーを怨んでいる人たちもいて、学者でも面会を拒絶するのがいて、その扱いに堪え兼ねて2ヶ月で退職し、シオニズム運動家の誘いでパレスチナ移住することになり、それを果たす直前、スイスのホテルで心不全によって亡くなっています。1934年1月29日、65歳でした。

すでにドイツではナチス政権が樹立され、その死もほとんど話題になることはなく、一周忌に開かれた追悼会はナチスに妨害され、追悼会に出席しないように圧力がかかり、一部の人は無視をして出席、それ以外の人たちは妻たちが出席、出席者の大半が女性でした。

ナチスに虐殺された神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の兄であるカール-フリードリヒ・ボンヘッファー(Karl-Friedrich Bonhoeffer)はベルリン大学の化学の教授で、フリッツ・ハーバーとも懇意でしたが、化学者協会に禁じられて出席を断念。協会の命令を無視して出席した化学者のオットー・ハーン(Otto Hahn)がボンヘッファーの演説文を読み上げました。カール-フリードリヒ・ボンヘッファーもオットー・ハーンもユダヤ人ではありません。

これが愛国者に対するナチスの仕打ちでした。

フリッツ・ハーバーとクララ・イマーヴァールの墓

 

 

毒ガス兵器開発に反対した妻の化学者

 

vivanon_sentenceここまでがフリッツ・ハーバーの人生です。

親友だったアインシュタインは一貫して平和主義者で、戦争にも反対したのと好対照です。アインシュタインがナチスドイツに対抗するための核兵器製造を米国に提案したのも、抑止力としてであり、実際には核兵器は使われないだろうという前提のもとです。これも裏切られるわけですが。

しかし、フリッツ・ハーバーは毒ガス兵器を開発し、それを使用する現場にもいて、指揮をしました。これに対して反対した人たちもいました。研究所にも反対者がいましたし、最初の妻のクララ・イマーヴァール(Clara Jmmerwahr)もそうです。しかし、フリッツ・ハーバーは耳を貸しませんでした。

クララ・イマーヴァールもまた改宗ユダヤ人でした。1870年、フリッツ・ハーバーと同じブレスラウで生まれ.父親は砂糖工場を経営。

1897年、ブレスラウ大学で学び、化学を専攻。1900年博士号を取得しています。ブレスラウ大学では女性で初の博士号であり、ドイツ全土でも化学では初の女性博士だったらしい。

学生時代にフリッツ・ハーバーと一度会っていたのですが、1901年、学会で再会し、フリッツ・ハーバーは結婚を申し込み、彼女は研究と結婚生活を両立できることを条件に承諾しました。名前も旧姓を使い続けます。

当初は研究を続けていたのですが、結婚1年後、子ども(Hermann Haber)が生まれてからは家事に専念するしかなくなって、フリッツ・ハーバーの手伝いをするだけとなり、不満が高まっていき、フリッツとの関係も冷め切っていきます。

 

 

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