松沢呉一のビバノン・ライフ

星製薬社長にして国会議員—星新一の父・星一が書いたSF小説『三十年後』[上]-(松沢呉一)

 

 

 

星一という人物

 

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何を調べても星製薬がちらつきます。戦前の星製薬はヒットに継ぐヒットで、薬関係のことを調べれば星製薬が登場するのは当然ではありますが、ビバノンでは「高井としをが働いていた」→「フリッツ・ハーバーを援助していた」→「インフルエンザ菌ワクチンを製造していた」という順番で、やっとストレートに薬に辿り着きました。

星一や星製薬については、高校生の時に星新一が書いていたのを読んで初めて知りました。私の世代ではその名を聞くことはまったくなくなってましたから。星新一が書いたいたことで記憶しているのは、戦後、星製薬は傾いて、それを引き継いで苦労したという話と、星一の出身地には変わった姓が多く、埴谷雄高も同郷で、本名は般若であり、古来宇宙から渡来したのがいたのではないかみたいな話くらい。

いい加減な記憶ですが、今調べたら星一は福島県石城郡錦村(現いわき市)出身です。埴谷雄高の父は相馬郡出身なので、近いと言えば近い。また、埴谷雄高の本名はたしかに般若でした。そこは合ってました。

興味深い人物ではありますので、この機会に星一の書いたものを読んでみるかと思い立ち、国会図書館のデジタルアーカイブで検索して、星製薬商業学校で出しているパンフのような小型本をまず開いてみました。

これは厳しい。生徒と星製薬の特約店に配布していたもので、金儲けの心得が警句のような形で書かれています。神という言葉もよく出てきて、新興宗教の教祖が書いたと見紛うような内容です。

そんなには知らないですから、別段尊敬していたわけでもないのですが、星一には冒険心に富む知的な印象を抱いていたので、「こんな人なの?」と意外に思いました。

星一の経営者としての手腕は自分が書いたものより、京谷大助著星一とヘンリー・フォード』(大正13年)の方がずっとわかりやすい。その生い立ちから、経営哲学までが理解できます。ヘンリー・フォードについても。そっちは飛ばし読みですが。

警句のような文章のいくつかは、どこからどう出てきたものかも理解できました。

※表紙は「星とフォード」になっていて、中では「星とフォード」と「星一とヘンリー・フォード」とどちらも使用されているのですが、国会図書館に合わせて、ここでは「星一とヘンリー・フォード」にしました。

 

 

製造だけでなく、販売に特色があった星製薬

 

vivanon_sentence星一は薬学を学んだわけでも、興味があったわけでもなく、実業で成功することを夢見て、東京に出て自活をしながら商業学校で学びます。卒業後に渡米して、サンフランシスコで働いて金を作ってから、コロンビア大学で経済を学び、在学中から新聞を発行、卒業後は雑誌を発行しています。あくまでこれらの出版事業も、食っていくためと人脈を作るための手段で、ジャーナリズムに興味があったわけではなさそうです。

その地で、一時米国にいた伊藤博文と知己を得て、伊藤博文が韓国総督府の統監として朝鮮に赴く際に声がかかるのですが、それを断っています。あくまで実業の世界で生きていく決意が硬かったのです。

帰国後、いくつかの候補の中から製薬を選択していますが、これも内容の興味からではなく、日本における製薬の将来性や低資本で始められること(製薬が低資本で始められたのはこの時代だからでしょう)、利益率などを計算してのことです。もちろん、知識がなければ成功するはずがないので、この時に薬学を勉強し、その道に進んでからも薬学の専門家のレクチャーを受けています。

その事業を始めるのとほとんど同時に故郷の福島から衆議院議員に立候補して当選。政治に興味があったのではなく、県会議員だった父親が喜ぶだろうと思ってのことだったのですが、これが人脈作り、金作りに大いに役立ち、以降も何度か立候補していて、落選したり、当選したり。第二次世界大戦後も衆議院議員をやっています。

 

 

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