山高(金子)しげりの提案から始まった女子挺身隊はフェミニズムか?—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 3]-(松沢呉一)
「吉岡彌生の婦人参政権運動はフェミニズムか?—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 2]」の続きです。
女の社会進出肯定論に至るまで
フェミニズムの歴史を学んだことのある方々には釈迦に説法でありますが、江戸から明治、明治から大正、そして昭和の戦争の時代、それぞれ女という属性にとっては大きな変動を迎えていきます。
武家は別にして、農業を筆頭とする一次産業においては、夫婦はともに野良仕事をしていました。一揆でもやるような時は別にして仕事における日常の役割分担は必ずしも明確ではない。江戸時代には商業も発達し、小規模な店においては女も店に出て、帳場を担当したり、丁稚を使う役割を果たします。これが主婦と呼ばれます。つまりは女主人。今の主婦という言葉は専業主婦が増えた戦後になって意味合いが変化したものであって、主婦という言葉に罪はない。
やがて産業革命によって男は工場で働き、女は家を守るという武家的役割分担が別の形で広まって、労働力不足は貧しい農家から女工という形で調達し、過酷な労働条件で使い捨てていきます。それに比べれば芸娼妓の方がはるかにマシだったわけですけど、女工を無視して、廃娼運動のみに特化した運動をしてきたのが矯風会であり、だからこそ宮本百合子らに批判されたわけです。
『女工哀史』を読むと、矯風会が工場を無視して遊廓を問題としたことの奇妙さがわかります。資本主義の発達は歓迎し、そのために女工たちが犠牲になることには目をつぶったのが矯風会です。
欧米においては第一次大戦が大きな転機になり、直接にはその影響は少なかった日本においても、とくに三次産業の発展によって、女の社会進出が加速していきます。デパートガール、エレベーターガール、マネキン、タイピストといった新職業です。もう少し登場した時代は早いと思いますが、車掌もそうです。
それぞれ資料に基づいて「ビバノン」で説明してきているので、興味のある方々はそちらを読んでいただくとして、この時期に、女の社会進出をどうとらえるのかの議論が活発に行なわれています。これも具体的にはあちこちに書いていますが、良妻賢母を旨とする大半の女学校は、社会進出に反対でした。女は家庭に入るべきであると。
一方で女権論と言われる男女平等思想に基づく人たちは社会進出を当然肯定。「青鞜」に関わった人たちがすべてこういう考え方だったわけではなく、山田わかのような改良型良妻賢母派もいましたし、教育者でも社会進出肯定論者がいて(なぜか男が多い)、ここは錯綜しているので注意のこと。
※Wehrmachthelferin 補助という役割でしたが、ナチスドイツでは女も国防軍の兵士になれました。イタリアも同様。見事な婦人の社会進出。「女も戦争に参加したい」という個人の考えを実現することは男女平等の考えから言っても肯定され得ますので、女の戦争参加はファシズム国家特有ではなく、第二次世界大戦時には、連合軍側もまた補助隊として女性の起用を進めていました。
国家主義による女の社会進出肯定論
この時に、社会進出肯定論をとる人たちがすべてフェミニストだと言えるわけではないので、これも注意のこと。
女学校で言えば、華族女学校の時代と違って、女学校も数が増えて、誰もが上流階級の奥方になれるわけもなく、やがて「デパートで客に見初められて金のある男と結婚できるのだから社会進出も悪くない」という方向に流れていき、だらだらとそちらに賛同していくのが全体的な社会の流れです。
この社会進出を実現したのは、資本の要請です。女工ではない働き手が必要になったのです。
また、国家主義としての女の社会進出肯定論もあります。
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