松沢呉一のビバノン・ライフ

矯風会が蔑視した女たちを自由な存在として肯定した花園歌子—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 6]-(松沢呉一)

廃娼派の道徳と存娼派の道徳はどこが同じでどこが違うのか—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 5]」の続きです。

前半は「今なお続く道徳派の傲慢と対抗するあばずれたちの主体化—伊藤野枝と神近市子[付録編 6]」ともろにかぶっているので読まなくていいです。

 

 

 

闘う芸妓・花園歌子の芸娼妓肯定論

 

vivanon_sentenceもっともラジカルな遊廓改良派はモダン芸者の花園歌子で、道徳に従う女たちは男の奴隷であり、芸娼妓こそが道徳が望む女から外れた自由な階級なのだとし、「日本に於ける唯一のフリー・ウーマン階級」と宣言しています。道徳派を逆撫でするように売春を肯定したのです。実際に彼女は矯風会を名指しして「無責任なブルジョア的廃娼論」として言葉を極めて批判しています。

スクリーンショット(2015-01-06 12.50また、個人の事情でしかないことを法で規制することも批判しています。恋愛もセックスも。酒についても同じでしょう。彼女は全体主義的発想を嫌った個人主義者と言っていい。

その上で遊廓をただなくせばいいと考えることは無責任として、芸娼妓の待遇改善を求めています。

有島武郎の『或る女』で、主人公である葉子が芸者こそが自由なのではないかと述懐するところが出てきますが、論としてここまで行きついていた人は日本では花園歌子くらいじゃなかろうか。そのため、この人を評価する人はほとんどいませんでした。吉野作造くらい。女が自分の意思で売春するようなことを社会は受け入れられなかったのです。

彼女は伊藤野枝大杉栄にも影響を受けていて(と、はっきり書いているわけではないですが、そう読み取れます)、伊藤野枝もクリアにできなかった個人主義的売春論を完成させたと言っていいでしょう。一世紀前に私と同じような主張をしていたことを知って歓喜すると同時に、なぜこの流れが大きくならなかったのかと悔しく思いました。理解し、賛同するには道徳が強すぎたからです。今もです。

花園歌子があれだけ明晰に左褄のバカバカしさを粉砕したのに、むしろ戦後の方が左褄が強化されて、作法と化したことを「左褄とは変態的服装のことである-花園歌子の左褄」で見ていきましたが、花柳界はひたすら保守化していきます。衰退する産業ですから、やむを得ないとも言えますが、社会全体がそうなってしまっているのではないかとも疑います。

 

 

スティグマの点からそれぞれを見る

 

vivanon_sentence花園歌子の立場からすると、自分の意思で売春することを認めないという点では道徳に基づく廃娼派も存娼派も五十歩百歩です。

花園歌子の視点が画期的なのは、スティグマの点から見るとよりはっきりします(スティグマって言葉を「オシャレな言い換え用語」だと思っていらっしゃる弁護士がいらっしゃいました。スティグマという言葉を見ると神原元弁護士の無知に裏打ちされた傲慢さを思い出さないではいられない)。

 

 

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