松沢呉一のビバノン・ライフ

廃娼派の道徳と存娼派の道徳はどこが同じでどこが違うのか—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 5]-(松沢呉一)

社会の矛盾には目を向けなかった久布白落実—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 4]」の続きです。

 

 

 

廃娼派と存娼派はどちらも道徳に基づいていた

 

vivanon_sentence前回書いたように、矯風会の道徳と遊廓を維持する道徳は重なっている点があります。自分から望んで売春をするような女は認めないという点がその典型であり、ほとんどの存娼派もほとんどの廃娼派もそう考えていました。

矯風会や救世軍によるプロテスタント系廃娼運動と、遊廓維持を主張する存娼派とは、それぞれどういう考え方に基づいていたのか理解していない人たちがおそらく多く、廃娼派は人権や男女同権思想に基づき、存娼派は古い道徳に基づていたと考えている人がいると思うのですが、これは大きな間違いです。

たしかに遊廓を支えていたのは旧来の道徳ですが、一方、廃娼派が根拠にしていたのは武家の道徳であり、明治以降キリスト教として入ってきた道徳です。正確に言えば救世軍はイギリスのヴィクトリア朝のプロテスタント道徳であり、矯風会で言えばそれを米国流にアレンジしたプロテスタント道徳です。

つまり道徳対道徳であり、違う点もありつつ、時に重なっているのは当然です。

廃娼派と存娼派のどちらも道徳に基づいていたという話を「ビバノンライフ」のどこかに書いたと思って検索したら、これを詳しく説明したのはまだ公開していない「循環湯」ものでした。長い文章で手直しが終らず、まだ出していないのでした。「循環湯」は極力出さない方針に転じたので、ここで簡単に説明しておきます。

※思望居士著『教育と廃娼との関係』(明治23年) ペラペラの冊子で、「問題の解決のためには教育の拡充をすべし」という内容で具体性はあまりない。この中に「英人ベルツ」が出てきます。おそらく「独人ベルツ」の間違いでしょう。英人と間違えるのは失礼極まりない。徐々に日本がドイツより英米を重んじていくことに立腹してましたから。ここでベルツは存娼派に位置づけられています。『ベルツの日記』にはっきりそう書いてあった記憶はないですが、あれだけ芸者が好きだった人ですし、医学的見地から遊廓があった方がいいとの立場だったのではなかろうか。

 

 

道徳から廃娼派と存娼派の対立を整理する

 

vivanon_sentence廃娼派については久布白落実のように「売春する女は日本の奥床しい婦人ではない。こんな賤業婦を生み出すのは公娼制度があるためだ。だから公娼制度をなくせばいい」という主張が典型。根底にあるのは「道徳的に正しい女」と「それに反する女」です。少なくとも建前上では明治時代の男たちもこれには賛成するわけです。

或る女 (新潮文庫)しかし、庶民においては処女や貞操なんてあまり重視されていなかったわけで、「処女で身売りされてきて…」なんて話は廃娼派の道徳的ファンタジーです。

ここまででも十分想像できましょうが、矯風会の道徳は青鞜社を筆頭とする「新しい女」と対立します。これについては有島武郎の『或る女』が大いに参考になります。自立しようとする主人公の足を引っ張る存在として矯風会が登場します。これは実話が元であり、実在の人物がモデルとなっていて、矯風会幹部も登場します。

対して、存娼派は「親や子どものためにやむなく売春するのは家族を思うためであり、そうである限りは娼妓として認めるが、それ以外は取り締まる。遊廓があることで風紀の乱れを防ぎ、良家の子女が堕落することも防げる」と主張しました。

 

 

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