松沢呉一のビバノン・ライフ

あばずれが社会を変革してきた—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[禁酒編 9]-(松沢呉一)

禁酒運動と新しい女の対立—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[禁酒編 8]」の続きです。

 

 

 

個人主義者たちと全体主義者たち

 

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女による社会運動を道徳という切口で見た時に、旧来の道徳に反して自由を獲得しようとした人々と、自身が道徳を守るだけでなく、女総体にそれを守らせようとした人々と、大きく2種いることがわかります。

前者は個人主義者たち、後者は全体主義者たち。矯風会が民族主義、戦争肯定路線に走ったのはわかりやすい。ナチス礼讃の国家主義者たる吉岡彌生とも話が合ったことでしょう。

また、禁酒運動は国によっては国家主義と関係しています。カナダの多くの州では米国より早く第一次世界大戦中に禁酒条例を制定しているのですが、これは「兵士たちが闘っているのに酒を飲んでいるのは申し訳がない」ということだったらしい(THE RISE AND FALL OF PROHIBITION IN CANADA (PART ONE)より)

フェミニズムの根幹にあるのは個人主義ですから、フェミニズムは個人の自由を求めます。道徳派の全体主義は個人の上に「女」という属性を置いて、その属性の理想に個人を従わせようとします。

今までにもずっと書いていたように、私が共感するのはハイカラ→新しい女→モダンガールの流れの個人主義者たちです。

ハイカラは明治後半、「新しい」女は明治末から大正にかけて、モダンガールは大正末から昭和初期にかけて。大正デモクラシーからエログロナンセンスの時代。この時代自体、私は好きです。

清沢洌著『モダンガール』(大正15年) 一冊まるごとモダンガールについて書いたものではなく、雑多な文章を集めた近代女性論といった内容の本で、この中にモダーン・ガールの章があります(本のタイトルは「モダンガール」、章タイトルと本文では「モダーン・ガール」)。好き嫌いで言えば好きではないとしつつ、モダンガールを「婦人反逆の第一声」として擁護論を展開していて、モダンガールは青鞜社の動きを引き継いだものであるとの見方も提示しています。「そこはちょっと違うだろ」というところもありますが、もっとも良心的なモダンガール論かと思います。また、この本では、売春も取り上げていて、著者は公娼制度反対ながら、それだけでは解決しないことはわかっていて、私娼も肯定できず、結局のところ、どうしていいのかわからずに戸惑ったままで終っていますが、「道徳における男女間のダブルスタンダードがなくなれば、売春は社会的罪悪ではなくなる」(要旨)とも言っていて、事の本質を見据えています。売春をしていけないように思えるのはたかが女に対する道徳の問題に過ぎません。岩倉使節団として渡米した津田梅子らについての文章もあり。

 

 

フラッパー女優とモガ女優

 

vivanon_sentenceこの流れが花柳界にも押し寄せてモダン芸者が登場し、中にはストリップのようなことをやるのもいたとされます。

花園歌子は、「モダン」がつけども芸者ですから、女を売りにする。しかし、それを主体的にやる。これはまさにフラッパーの姿勢です。矯風会にとって、あるいは社会全体にとって、もっとも唾棄すべき存在でした。カッコいいべ。

花園歌子ほど透徹した売春論を確立できなかったのが「新しい女」の中途半端さであり、花園歌子の論ははみ出し者だからこその到達点です。

また、この時代の「阿婆擦れ職業」に女優がありました。芸者に近い地位だったと言っていいでしょう。私の好きなフェミニスト、森律子女優になったというだけで跡見女学校の同窓会から除名されそうになります。そういう存在だったからサフラジェットにも共感したのでしょう。

フラッパーの時代にはフラッパー女優がいたように、モダンガールの時代にはモガ女優として人気を得たのもいます。二重に阿婆擦れ。その代表格が女優の英百合子です。自身は全然そういうタイプではなかったようですけど、モガがはまり役。

インタビューで彼女は「不良少女が大好き」と言ってます。今はモガに不良イメージを見出すことは難しいですけど、これはモガのこと、少なくともモガを含めているでしょう。

 

 

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