松沢呉一のビバノン・ライフ

ワルシャワ・ゲットーの記述はリアル—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[3]-(松沢呉一)

日記が実在するなら、なぜそのまま出版しなかったのか—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[2]」の続きです。

 

 

困ったことになった

 

vivanon_sentence第1章で「なんだ、これ」と思い、先に『痛ましきダニエラ』の訳者解説を読んで、パチモンであることがわかってしまったため、事実を書いたものとしては読む気が失せましたが、そのまま放り投げる気にもなれませんでした。

というのはざっと10ページほど読んだだけでも、「しっかり書かれている小説」という印象がありました。続きがどうしても読みたいというわけではなかったのですが、この小説は一体なんなのかを見極めたくなりました。謎解きの面白さです。

しかし、これは読むのが面倒な小説です。多数の人物が名前つきで登場するのですが、馴染みのないユダヤ人やポーランド人の名前のため、まるで覚えられず、名前からイメージも湧かず、よって人物を把握できません。

その上、時間軸が前後する箇所が多く、読みづらい小説です。

すぐにつまづいて、人物と地名のリストを作りながら読みました。翻訳ものを読む時にはよくやることです。これをやらなかったら、物語の半分も理解できなかったと思います。

すべて読み終えた感想は「困ったことになった」というものでした。実在の人物の日記をもとにした可能性はやはりまったくないながら、曽根富美子『親なるもの 断崖』のようにおかしな点を挙げて罵倒すれば事足りる内容ではないのです。

では、改めて本書の内容を紹介していきます。

※ポーランド人の名前なんて知らねえよと思ったのですが、Wikipediaのユダヤ系ポーランド人のリストを見ていたらいっぱい知ってます。スタニスワフ・レムもそうでした。私は『ソラリスの陽のもとに』が大好きなのに、ユダヤ系ポーランド人とは意識してませんでした。あの小説で、自分の存在があやふやになっていく感じはレムのアイデンティティそのものです。といった解説が文庫に出ていたかもしれない。

 

 

ワルシャワ・ゲットーの様子

 

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主人公のダニエラ・プレレシュニックは14歳の少女です。通称ダーニ。

ポーランドはナチスに支配され、修学旅行先でユダヤ狩りに遭って、同級生たちの多くが射殺される中、ダニエラは単独で逃げます。しかし、結局は捕まって、ワルシャワ・ゲットーに押しこまれます。

ここは訳者の誤訳ではなく、訳語が安定していなかったせいだろうと推測してますが、訳者はゲットーを「ユダヤ人町」とともに「収容所」と訳しています。これで私は「ここはどこだよ」と混乱をしてしまいました。「ゲットー」としたのでは当時の日本では意味がわからなかったにしても、「ユダヤ人町」で統一すればよかったのに。

この本は文章としておかしな訳はとくに感じなかったのですが、これに限らず、訳語によって正確な意味を受け取れないことが多々ありました。ヘブライ語から英語、英語から日本語という二重翻訳のためもありそうですが、訳者はナチスについての知識が十分ではなかったのだろうと感じました。以降、不適切な訳語については随時指摘していきます。

ゲットーについてあまり読んでいない私は、この小説で初めてリアルにゲットーの生活を感じ取ることができました。ここは小説の強さです。

ゲットーはただ多数のユダヤ人が押しこまれて、わずかな配給の食糧で辛うじて生きているような場所だと私は思っていて、完全な間違いではないのですが、この段階で強制労働の意味合いが強かったようです。

もともとユダヤ人が住む町に、よそからもユダヤ人たちが次々連れてこられ、そこから出ることが禁じられるわけですが、それまでのユダヤ人町のビジネスや生活はある程度維持されていました。少なくともこの本に登場する時期のゲットーでは。

 

 

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