松沢呉一のビバノン・ライフ

日記が実在するなら、なぜそのまま出版しなかったのか—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[2]-(松沢呉一)

存在しない人物の存在しない実話—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[1]」の続きです。

 

 

 

存在し得ない日記をもとにした「実話小説」

 

vivanon_sentenceカ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ』は、実在した少女ダニエラによる数冊の日記の類いが残されていて、その日記をもとにして書かれた小説という触れ込みであり、その日記が存在しないとなれば、ダニエラについての記述はほとんどすべてがウソです。

実際、こんな日記を残せた可能性はほとんどない。と解説を読んだ時に思ったのですが、このあと小説を最後まで読んだところ、小説の中ではまだしも可能性があるように説明されています。これについてはのちほど取り上げるとして、小説を10ページ程度しか読まず、解説を読んだ段階での疑問点をまずは書いておきます。

とくに絶滅収容所はトップシークレットで、SSも口外することを禁じられていました。絶滅収容所じゃなくても、強制収容所の収容者が日記を書くことはほとんど不可能だったでしょうし、まして外に持ち出せる可能性は低い。

米国ホロコースト記念博物館現存している日記のリストを出しています。ナチスによる迫害を受けたユダヤ人によるものだけです。多くは収容所に入れられる前まです。『アンネの日記』もそうです。収容所に入れられて以降の日記は数えるほどしかなく、それらは「メモ」とあります。メモしか書けず、メモしか持ち出せない。

ホロコースト記念博物館のリストは「すべてではない」と注釈が出ているように、このリストには出ていないですが、少しずつ持ち出されて、のちに一冊にまとめられたものもあります。『David Koker Dagboek geschreven in Vught』がそれ。

学生だったデヴィッド・コッカーが1943年2月11日から1944年2月8日まで収容所内で書き続けた日記で、1977年になって本にまとめられています。こちらで読めますが、1日分は極短い。これが本物であるのかどうかの判定は私にはできず、1年にわたってどうやって持ち出せたのかもわからない。SSや看守に協力者がいたのか。働きに出た先の工場に協力者がいたのか。

彼はオランダのヴグート(Vught)にあったヘルツォーゲンブッシュ強制収容所(KZ Herzogenbusch)に収容されていました(ヴグート強制収容所とも称される)。絶滅収容所ではないので、監視がいくらかはゆるかったのかもしれない。

これが本物だとしても、極々例外的なものです。日記を二次使用したものとして、『痛ましきダニエラ』もホロコースト記念博物館のリストに入れられてもいいはずですが(この小説では日記の抜粋も使用されていますので)、入れられていません。さすがにホロコースト記念博物館の学芸員は日記が実在したことを疑うでしょう。

 

 

なぜ日記をそのまま出版しなかったのか

 

vivanon_sentence蕗沢紀志夫による訳者解説には「ユダヤ人収容所の天井下のタイルのストーヴの上に隠した数冊の日記と、労働キャンプの窓敷居の下の、冷蔵庫と壁の間に挟んでおいた最後の日記」とあります。個室を得ているような特恵収容者の部屋にはストーブがあったかもしれず、鉄条網に電流が流れていたくらいで、電気は使えたわけですから、冷蔵庫もあったかもしれないですが、14歳の少女がそんな待遇にあったのか?(収容所に入れられたのは15歳か16歳と思われますが) 特別待遇だったとしても、ドイツ人だって食糧はつねに不足していたのに、いったい何を冷やすのか。

冷蔵庫があったとして、個室待遇なら日記を書くことは可能だったとして、さらにうまく持ち出せたとして、もし数冊の日記帳が残っているなら、どんなに文章が稚拙であっても、類い稀な歴史的資料です。出版社はなぜそれを出さなかったのでありましょうか。『アンネの日記』と並ぶベストセラーとなるかもしれず、まさに「永劫の記録」になりました。収容所内で収容者が書いた日記はわずかしか残されておらず、慰安所にいた人物の日記は知る限りひとつとして残されていないんですから。

著者のカ・ツェトニック135633も、日記を読むことができたのであれば「これを世に出すべきだ」と考えないはずがない。なんでそれをもとに小説を書いてんだよ。金が欲しいとしたら、その編集をすることで印税の一部をもらえばいいではないか。その上で小説にすれば一石二鳥。

この解説を読んだ段階で私は腹を立ててました。著者に対して、また、そこに疑問を抱かない訳者と出版社に対して。

 

 

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