松沢呉一のビバノン・ライフ

ドイツ人とユダヤ人が入り乱れての乱交パーティ—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[6]-(松沢呉一)

ラーフェンスブリッュク強制収容所をモデルにしたと思われる—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[5]」の続きです。

 

 

 

虚構上の謎

 

vivanon_sentence

酔っぱらった「女親衛隊」がハリーをキリストだと言い出すなど、ハリーの物語でも、あきらかな虚構が増えていき、ハリー自身、狂気を孕んでいきます。この女親衛隊はアル中のメンヘラだと思います。

ダニエラとフェラたちは他の収容所へ出張することになり、ドイツ兵たちと酒を飲みながらの乱交を繰り広げます。この収容所はニーデルヴァルデン収容所で、ここはハリーが収容されているところです。

ハリーを崇める女親衛隊員が契機となって、ハリーはその乱交の場に迷い込んで、ダニエラとハリーの兄妹は再会し、ダニエラは快楽区に戻ったあと自ら施設の外に向っていって見張り塔から撃たれます。自殺のようなものです。これで話はおしまい。

翻訳者の解説には「これらの残虐と破廉恥に堪えかねたダニエラは遂に放心し、霧の夜道にさまよい出で、見張り塔の監視員の一撃に斃れるのである」とありました。ネタばらしがしにくかったための省略かとも思いますが、小説で描かれていたのはこれとは違っていて、ダニエラが死を選んだ直接のきっかけは、その境遇に悲嘆したためではなくて(それももちろんあるのだろうけれど)、兄と再会したためです。

ここがこの小説の最大の謎。事実かどうかではなく、虚構としての謎。

訳者による「これらの残虐と破廉恥に堪えかねたダニエラは遂に放心し、霧の夜道にさまよい出で、見張り塔の監視員の一撃に斃れるのである」というまとめは落ち着きがいい。この流れに沿うのであれば、ダニエラは快楽区に入れられて苦痛の日々を送っていて、ある日、フェラとともに強制的に出張組に入れられ、ドイツ人たちと乱交という恥辱の頂点にある時にハリーに見られ、心の支えであったハリーの顔はもう見られず、絶望のあまり死を選択したという展開が自然です。

しかし、小説ではそうなってません。

The barbed wire fence and a watch tower at Vught after the liberation of the camp. 
Photo credit: Glowna Komisja Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu, courtesy of USHMM Photo Archives オランダにあったヘルツォーゲンブッシュ強制収容所の見張り塔。

 

 

希望を捨てていなかったダニエラ

 

vivanon_sentenceダニエラは快楽区で自ら死ぬことを考えていながらも、生きる意欲は失っていません。相手をしたドイツ兵にクレームをつけられたらどうしよう、性病になったらどうしようと脅えているのですが(いずれも死を意味します)、セックスをすることや手術によって子どもを産めなくなったことへの嫌悪や怒りは直接には書かれていない。彼女はおそらくそれまで処女であろうと思わせながらも、処女でなくなったことの恨みも描かれていません。胸に「国家の所有物」という烙印を電気スタンプで入れられた時も痛くなかったとあっさりしています。

それより彼女が気にしているのは、労働区の女たちです。ダニエラが労働区にいた時に知り合った少女はやせ衰えた骸骨のようになりながら、快楽区にいる女たちが、自分らの食べ物を掠め取り、太っていい生活をしていることを憎悪していました。食べ物がない環境にとっては、セックスをしてでも食べ物のある環境の方がいい。いずれ殺されるにせよ、食い物がなく、過酷な労働を強いられる労働区の方が死は早い。

ダニエラは快楽区に移動したことで、彼女らを見捨てたことになり、今度は自分が労働区からの憎悪を向けられていることを気に病んでいるのです。

この感情はリアル。快楽区でもっともリアルだと思ったのはここです。

フェラが憎んでいたのは自分を裏切って収容所に送り込んだゲットーの民兵たちでした。強制収容所のユダヤ人が憎んだのはしばしばカポでした。直接に自分らに暴力をふるう人間たち、食べ物を掠め取っていく人間たちを憎む。その向こうにいるドイツ人たちは顔が見えにくいので憎しみの対象にはならない。なるとしても曖昧なのです。フェラに至ってはドイツ人司令官の愛人になることで、同じユダヤ人に復讐をしようとしています。

ダニエラは快楽区で希望を捨てておらず、食べ物の余裕があるため、兄のハリーを見つけて食べ物を渡したいと願います。ハリーも食べ物には困っていないわけですが、そんなことはダニエラは知らない。他の収容所に行けば兄がいるかもしれないと思って、自ら出張を望んだのです。

イタリア語版Wikipediaより「L’ultima orgia del III Reich」のポスター。1977年、イタリアで制作されたナチス・ポルノです。直訳すれば「第三帝国最後の乱交」。『痛ましきダニエラ』の映画化と言えなくもない。

 

 

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