松沢呉一のビバノン・ライフ

カ・ツェトニック135633の実名はイェヒエル・デ・ヌール—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[7]-(松沢呉一)

ドイツ人とユダヤ人が入り乱れての乱交パーティ—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[6]」の続きです。

 

 

生き延びたフェラ

 

vivanon_sentenceユダヤ人とドイツ人のあり得ない乱交、その乱交でセックス礼讃とも読める記述の流れで、もうひとつ私がこの小説を否定し切る気になれなかった点があります。

死の直前にダニエラはベッドに隠していたノートをフェラに託して(渡したのではなく、その所在を教えて)、「兄に渡して」と言って死に向います。

 

 

フェラならできる。フェラならなんでもできる。フェラは、かんな屑の下のノートとロケットのことを覚えていてくれるだろう? フェラなら、きっと戦争が終わったあと、あれを両親に渡してくれるだろう。

 

 

「兄に渡して」と「両親に渡して」と、ふたつの希望を述べています。どちらでもいいからどう自分が生きたのか、そしてどう死んでいったかを伝えて欲しい。

ロケットには、弟モーニとダニエラの写真が入っています。フェラは戦中なのか戦後なのか、その約束通りにハリーに渡したのでありましょう。だから記録が戦後まで残ったことが虚構上で想像できます。

ニセではあっても医師ですから、一般の収容者に比べれば、ハリーはノートとロケットを隠すことができます。しかし、立場としては召使いを労働とする収容者でしかないフェラは、また出張がない限り、他の収容所まで行けるわけでもなく、出張があっても、ハリーに会える可能性は低い。会えて渡したところでハリーだっていつ死ぬかもわからない。

自分で管理して、戦後になってハリーなり両親なりに渡したのでしょうか。フェラはなんでもできますから。

数冊の日記はゲットーに隠したままで、この頃にはゲットーはすべて焼き払われたはずです。それも誰かが気づいて、焼き払われる前に回収し、戦後、親かハリーに渡したわけです。

1973年の米版ペーパーバック

 

 

生を肯定した書

 

vivanon_sentenceフェラはゲットーの段階でも体を使って食糧を得ていて、同居人たちはその恩恵を受けていました。

ドラマ「Playing for Time」に登場した売春娘は、最後に制裁されます。「セックスをして食べ物を得るくらいなら、女はきれいな体で餓死して死ね」というメッセージです。せっかくいい内容だったのに、ここで「くだらんドラマ」と私は思いました。俗な道徳に媚びる方が落ち着きよくまとめられるのはわかりますが、安易すぎるっちゅうの。

それに対して、『痛ましいダニエラ』のフェラは収容所でもうまいことやって、さらに戦後まで自力で生き抜いたかもしれない余地を残しています。望んで売春するような女を制裁して欲しい大衆の欲望に媚びていない。

つまり、この小説は、一般の倫理観とは違うセックス観が貫かれているようにも読めるのです。

たしかに多くの女たちは意思なき人形だったかもしれない。しかし、ダニエラはその立場を使って、つまりセックスを利用して兄に会いに行こうとした点で人形ではありませんでした。それでもあえなく憤死しますが、フェラは生き延びたことを日記の存在が示唆しています。

戦後はナチス幹部の愛人として迫害されたかもしれないけれど、フェラはなんでもできますから、それもうまくくぐり抜けたに違いありません。

生きるためにはセックスもする。生きるためにはニセ医者にもなる。それを肯定的に書いているこの小説は、生の肯定の書になっています。歴史的事実を無視してでも作者はそうしたかったのでしょう。生より道徳を上位にもってくるようなことをしていない点で私は否定できないのです。

「ビバノン」には「読む価値なし」というカテゴリーがありますが、当初この本もそこに入れようとしてやめました。

※カ・ツェトニック135633の前著「סלמנדרה(英題:Salamandra)」(1946)。この主人公もハリーです。

 

 

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