松沢呉一のビバノン・ライフ

自分の歴史も改竄しようとした—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[12]-(松沢呉一)

アイヒマン裁判での大芝居?—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[11]」の続きです。

 

 

アイヒマン裁判でのイェヒエル・デ・ヌールの動き

 

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なぜイェヒエル・デ・ヌールがアイヒマン裁判に呼ばれたのかと言えば、収容所に入る前、ゲシュタポ本部で拷問された際にアドルフ・アイヒマンに会ったと言っていたからです。ユダヤ人でアイヒマンに会った生存者はほとんどいなかったため、重要な証言者として召喚されました。

アウシュヴィッツで奇跡的に生き伸び、快楽区で働かされている時に奇跡的に乱交パーティで再会したあと妹は死に、ゲットーに残した日記もベッドに隠したメモも奇跡的に入手でき、弟が性的虐待されたことを奇跡的に知り、アイヒマンとも会っていた奇跡的なユダヤ人がイェヒエル・デ・ヌールです。

そのうち日記の実在はほぼ否定され、確定はしていないにせよ、妹については信頼できそうな研究者から存在しなかったと指摘されています。あとは奇跡的に事実かもしれないけれど、アドルフ・アイヒマンに会っていた客観的証拠はないのです。記録がないのは当然ではあれども。

適当なウソを言っていたら裁判に呼ばれることになって、拒否することもできず、大芝居を打ったのではないかと疑わないではいられませんでした。

もちろん、疑えば疑えるってことでしかないのですが、もう一度アイヒマン裁判の映像を観てください。

イェヒエル・デ・ヌールは一度立ち上がって席に戻り、それからまた立ち上がって卒倒しています(卒倒した瞬間はカメラが外れてますが)。

気分が悪くなったんだったら、席にいたままの方が安全です。しかし、あの席で失神したのでは絵にならないので、一度立って様子を確認した、あるいは一度は逡巡したのちに決行したように見えます。

あの場で気を失うことまでは予定していながら、どこでどう倒れるのかについては現場で決定したのではなかろうか。

以下は英語版Wikipediaから、倒れるまでに語った内容です(自動翻訳にちょっと手を加えました)。

 

 

私は自分を文学を書く作家とは見なしていません。これは惑星アウシュビッツの年代記です。私は約2年間そこにいました。ここにいる時間は地球上と同じではありません。(…)そしてこの惑星の住民には名前がありませんでした。彼らには親も子供もいませんでした。彼らはここのような服装をしませんでした。彼らはそこで生まれたのではなく、出産もしませんでした…彼らはこの世界の法律に従って生活していませんでしたし、死にませんでした。彼らの名前は収容者番号でした。

 

同様のことはこれ以前から言っていたか、書いていたようです。

すべてここで言い尽くしています。自分が書いているのは別世界での出来事の真実であり、今この世界とは別です。虚構だらけであることを認め、だから、これ以上聞かないでくれということだと受け取れます。

裁判長は作品の内容についての質問を続けるつもりだったでしょう。日記や妹についての言及もする。もちろん、アイヒマンについても聞きます。そのすべてを避けたかったのではないか。

 

 

当時から怪しいと思っていた人たちはいたよう

 

vivanon_sentence収容所に入れられた人たちがPTSDで苦しむのは当然として、また、イェヒエル・デ・ヌールがのちのちまで悪夢を見るなどしてLSDによる治療を試みていたのは事実して、失神するほどのPTSDに苦しんでいた人が、親族をネタにした残酷小説を戦後すぐ書きますかね。書く必要があると思えば苦しくても書くと思いますけど、あの内容が逼迫した衝動によって書かれたとは思えない。十分な計算によって書かれています。

アイヒマン裁判はあまりに知られすぎていて、さまざまな人が言及しているので、いまさら私が読む必要はないかと思い、今までまとまったものは読んでません。そのため、この「イベント」についても知らずにいました。

これですぐに閉廷ですし、この発言に対する反論も何もしようがないので、アドルフ・アイヒマンは以降もコメントすることはなかったのではないかと思うのですが、アイヒマンがどこかでイェヒエル・デ・ヌールについての記憶があるのかないのかについて語ったものがないか、イェヒエル・デ・ヌールがアイヒマンに会ったという証言を検証したものがないかと思って、ネットで探しました。

 

 

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