松沢呉一のビバノン・ライフ

与謝野晶子の男女平等論—平塚らいてうの優生思想[付録編 2]-(松沢呉一)

与謝野晶子も優生学を肯定的にとらえていた—平塚らいてうの優生思想[付録編 1]」の続きです。

 

 

まずは個人の改造

 

vivanon_sentence優生学を肯定していたとしても、どいつもこいつも「同じ穴のムジナ」とは言えず、平塚らいてうと与謝野晶子の考え方には決定的な違いがあって、その違いに基づいて、与謝野晶子は平塚らいてうを批判しました。

その考え方の違いは国家や個人の関係をどうとらえるかに表れています。

与謝野晶子の考え方の根底にある原理が表現されている『女人創造』収録「質の改造へ」から拾ってみましょう。

 

 

世界の文化は個人の陶冶を基礎とします。自分自身の改造が最も切迫した緊要となります。私は個人自身を改造する事に由って世界人類の改造に参加しようと思ひます。この点は、最初から専ら他人を指導したがる人達や、自分を空しくして社会的奉仕を唱へる人達とは意見を異にして居ます。

 

 

直接に個人主義を謳っているわけではないですが、世界の基本単位は個人であり、その個人の改造を達成しない限り、個人の集積である世界は変わらないってことだと私は受け取りました。

平塚らいてうが望んだ母性保護や優生思想は大日本帝国が実現した—平塚らいてうの優生思想[5]」に書いた「自身の中に矛盾を抱えながら、世界の矛盾について語っていた伊勢谷友介」についてずっと考えています。

たとえば政治に対して「清く正しく美しく」を求める人が金に汚く、悪いことをやり、嘘つきだった場合でも、政治に求めるものと、政治家ではない市井の人とは別基準ということはありえますし、個人としていかにクズであっても、その発言の内容は「正しい」ということもあって、一律にクズである個人とともに発言を否定されるべきではないとも思います。

しかし、個人としてクズであることはそれ自体、批判されるべきであるとともに、個人の抱えた問題やコンプレックスみたいなものをごまかすために、体裁のいい言葉を外に向けて発する人たちがいて、その個人に対しては「先に自分の問題を解消しろよ」と要求するのは当然かと思います。

出方が全然違うのですが、私の中にも確実にこれはあります。これについてはまた改めて。

Flappers wearing pattern stockings 着色しました。

 

 

婦人運動には自律精神が欠けている

 

vivanon_sentenceここで引用した部分は、あくまで「私」が主語であって、他人もそうしろと言っているわけではなく、また、自己鍛錬、自己改造をしていれば事足りるというわけでもなく、与謝野晶子は労働運動を支持し、階級闘争もその方法によりけりと言えども肯定的で、無政府主義に対しても、取るに足らない空想としつつ容認していて、もうちょっと時代が後だったら発禁になりかねないことも言ってます。

世界の改造を求めるなら、まずは自分を改造しろということであり、それなしに社会の問題に口出ししても皮相なものにしかならない。伊勢谷友介に聞かせたい。

まずは独立した自己を確立することが必要です。

 

 

私達は人格的に独立した一個の主題であるのですが、果して自律的に行動して居るでせうか。私達は自分自身を目的としないで、何等かの自分以外の勢力の手段となって居ないでせうか。国家も家庭も黃金も、すべて人類共存の機関であるのに、反対に個人が其等の物に従属しては居ないでせうか。(略)

 

 

判断する、決定する、行動する場合に、自律的であるかどうかは私のテーマでもあります。他人の影響を排してまずは自分で考える。

 

 

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