松沢呉一のビバノン・ライフ

新婦人協会によるふたつの請願—平塚らいてうの優生思想[1]-(松沢呉一)

優生思想の法制化を下から支えた人々—平塚らいてうの優生思想[予告編]」の続きです。

 

 

新婦人協会に対する与謝野晶子の期待

 

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新婦人協会は「青鞜」を創刊した平塚らいてうが、1919年(大正8年)に始めた婦人団体です。青鞜社は文芸誌を発行する団体であり、講演会を主催したことはあっても、社会運動、婦人運動の団体ではありませんから、平塚らいてうにとっては初の婦人運動団体です。

以下は新婦人協会の登場を歓迎する与謝野晶子の文章です。いかに与謝野晶子が新婦人協会に期待していたのか、いかにこの時代の婦人団体がろくでもなかったのかがわかるので、長いですけど、お読みいただきたい。

 

我国には現に処女会と云ひ、婦人会と云ひ、多数の婦人団体があります。併し其等のものは、すべて男子の専制を無反省に肯定して、如何にしたら男子の気に入らうかと云ふ卑屈なる奴隷根性から計画された婦人団体ばかりです。目的は女子の精神的貢献を標榜して居るにせよ、要するに男子に属する御用婦人運動であって、男子に対して女子の人格的独立を主張したり、男子と同じく民主主義的生活の公平なる分配に与らうと要求したりする意味の婦人団体は、今まで一つも成立して居ないのです。要するに其等の団体は実際に於いて精神修養にも役立たなければ、社会的貢献にもならず、反対に、其等の順俗的な団体が存在する限り、女子の徹底した自覚を妨げ、男子の先制を永びかせる結果になるばかりです。例えば或婦人団体の如きは、慈善行為の実行に有頂天になって居ますが、何ぞ知らん、慈善は恩情主義と同じく、資本家階級が赤貧者や老廃者を第二次的人間の如くに見下し、自家の富力に比して大海の一滴にも足りない零碎の施興に由り、慈善家たること快感を買はうとする特権思想の産物です。(略)

私は久しき以前から其等の多数の婦人団体の無用有害な存在を遺憾に思ひ、意義ある婦人団体の新しく興ることに由って、其等の婦人団体もまた刺戟されながら、根本的に改造される日のあることを望んで居ます。

然るに今は機運と人とを併せて得たと云って宜しいでせう。平塚明子さんの首唱に由って新婦人協会の創立が発表されました。私は之を婦人界に於ける最近の重大な現象として喜びます。嘗て雑誌「青鞜」の上で平塚さんの起された啓蒙運動は、世の保守主義者の一知半解な観察の下に種々の物議を生じましたが、それだけ社会の耳目を聳動して、青年女子のために多大の刺激となり、我国に於ける婦人解放の第一声が平塚さんに由って放たれた功績を永久に留めて居ます。今また平塚さんがかう云ふ実際運動に向ってその「円窓」の中から踊り出して来られたと云ふことは、女史の思想が個人より社会へ順当に展開して行くのみならず、女史の熱誠と勇気とが年毎に増進して行くことを実証して居ます。

 

——『女人創造』収録「女子の団体運動」より

 

 

いわばフェミニズム団体と言える団体はひとつとしてないと嘆いています(フェミニズムという言葉はこの頃にはもう入ってきていたはずですが、まず使われることはない)。

「青鞜」に触発された西川文子らによる新真婦人会というのもありましたが、ここも主な活動は雑誌の発行であった上に、既婚者の啓発を目的とし、与謝野晶子の基準には達しなかったろうし、平塚らいてうにもこき下ろされた団体です(それでも見ておくべき点はあって、新婦人会の本や戦後出た西川文子の本も読んだのですけど、婦人運動の歴史については傍流までまとめる気力がもうない)。

また、それ以外にも結成された団体はあっても内紛であっという間に解体してしまったことを『女人創造』掲載の別の原稿で書いています。

まして矯風会ははるか遠くにある宗教道徳団体です。

そこに遂に平塚らいてうが「実際運動」を始めたというので、与謝野晶子は泣かんばかりに喜んでいることが伝わりましょう。

なお、「個人より社会へ順当に展開して行く」というのは、与謝野晶子が理想としていた考え方に基づきます。社会を変革するなら、まず自分を変革する。それが社会の変革につながっていく。その考え方から、資本家階級が自らの地位を確保したまま、わずかな金を集めて慈悲を与えて、相手を見下す快感に酔うような活動は我慢ならないものがあったのでしょう。

矯風会が慈善活動をやっていたのかどうか知らないですが、矯風会の人々の「自己改革なき社会改革」もまたこれに近い。

Vintage Ladies Dancing Charleston Photo 1920s Flappers Jazz Prohibition era 着色しました。

 

 

治安警察法第五條撤廃の請願

 

vivanon_sentence与謝野晶子が歓喜した新婦人協会の登場ですが、その活動は与謝野晶子を大いに失望させます。

新婦人協会が結成されて最初の活動は国会に対する請願でした。この請願は二つあって、ひとつは治安警察法第五條撤廃の請願」、もうひとつは花柳病男子の結婚に関する請願書」です。

 

 

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