松沢呉一のビバノン・ライフ

「Wikipediaは間違いだらけ」はどこまで本当か—本にまつわる権威と幻想[6]-(松沢呉一)

「童貞。をプロデュース」を観ずに語れる範囲—本にまつわる権威と幻想[5]」の続きです。直接には続いてないですが。

「猫町倶楽部初体験」シリーズから派生した「本にまつわる権威と幻想」シリーズは、着地点が自分でも見えず、かつ読む人が減ったため、中途半端なところで終わってましたが、うんと先まで書いてあって、その中で出しておいてもいいかと思える部分があったため、そのパートだけ出しておきます。今年の2月くらいに書いてあったもので、内容が古くなっている部分がありますが、そのままにしておきます。

 

 

 

紙の本vs.電子書籍

 

vivanon_sentenceよく電子書籍と紙の本と比べて、読むものとして、どちらが優れているのかを比較する記事がありますが、どちらにもいい点悪い点があるってだけのことで、どちらかに軍配を挙げる必要はないでしょう。

「ラーメン屋で食べるラーメンとインスタントラーメンとどっちが優れているか」を論じたって意味がないのと同じ。

本は電源がいらず、バッテリー切れを気にすることなく、どこでも読み続けられます。とくに文庫や新書は小さいので、持ち運びに便利な点が長所であり、雑な扱いをしてもいい。たまに銭湯の洗い場で雑誌や漫画、文庫本を読んでいる人がいて、紙が濡れても本は読めます。台風で水浸しになった本も読めます

対して電子書籍は検索ができるので、調べものに向く点や、読みたいと思った時にすぐさま購入できる点が長所です。

私はそれがことさらにメリットとは感じられないですが、本のメリットとして「自分が今どの辺を読んでいるかわかりやすい」ということがよく挙げられます。

「本全体が320ページあって、今150ベージだからもうじき半分」と意識しながら読むことがよくあります。これに対してインターネットで国会図書館のデジタルアーカイブの本を読む時はページ数を気にすることはできても、物理的な分量の実感がないのは事実。

そのため、リアルな本と違って、読んだあとで「どの辺に出ていたのか」をあとで思い返すことができにくい。小説だったら物語の展開でだいたいの位置はわかるとして、評論や随筆の類いだと目次で当たりをつけて探すしかない。

Nishikawa SukenobuTwo Women Reclining on the Floor of a Room and Reading a Book

 

 

結末が見えることの安心感・結末が見えないことの緊迫感

 

vivanon_sentenceということが現にあるのだけれど、「だからどうした」って話でしかなくて、こんなん、国会図書館が本文詮索できるようにすれば解決する話です。青空文庫だったらそれができます。

本文検索はできるようにして欲しいですけど、「どの辺を読んでいるのか」の実感が得られないことが欠陥だとはどうしても私には思えません。

映画でも「あと30分くらいだな。そろそろエンディングに向けての展開があるはず」と目星をつけることがあります。映画は必ず終わる。上映時間が事前にわかっているので、その展開も残り時間で当たりをつけられる。しかし、当たりがつけられないからと言って困ることはないでしょう。

たとえば香港の民主化運動の中継を見ている時に、何が起きるかわからない。結末も見えない。だからこそ真剣に観る。生の強さです。

しかし、「夏の間には収束するだろう」「国慶節までには収束するだろう」「来年までは持ち越さないだろう」という読みを人は語りたがります。今は見えにくくなってますし、ピーク時に比べれば勇武派は弱体化はしてますが、なお収束はしてません。どの読みも外れたわけで、根拠があったのではなくて、人はどうしても結末をわかっていると思いたいみたいです。あるいは「わかっている自分」をアピールしたいってことか。

その習性にとって本や映画は安心感があるってこと以上の意味が私にはわからない。電子書籍にも結末があるわけですが、本ほど物理的に終着点が見えない。この程度の脆弱な根拠でも「本はデジタルメディアより上」と言いたがる人たちが多いってだけではなかろうか。

※Auguste Renoir「Young Girl Reading」 National Gallery of Artより

 

 

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