松沢呉一のビバノン・ライフ

昭和20年代から30年代、暴力をふるっていないのに暴力飲み屋の街とされた池袋-[ビバノン循環湯 567]-(松沢呉一)

この原稿はいつどこに書いたのか記憶にないが、たぶん20年くらい前のもの。写真はつい数日前に撮ったもの。

 

 

何もなかった池袋

 

vivanon_sentence今でこそ新宿、渋谷などと並ぶ繁華街として気楽に行けるようになった池袋だが、戦前までは繁華街さえない小さな駅でしかなかった。

池袋駅ができたのは明治36年(1903)のこと。まだ山手線が環状になっていなかった時代だ。

大正時代には西武線や東武線も開通し、立教大学も移転してくるのだが、これだけの路線が交差する場所にもかかわらず、昭和初期の乗降客は一日百人程度だったそうで(ホントかどうか疑わないではいられないが)、花街が発展していた大塚や巣鴨の方がはるかに開けた場所だった。昭和に入ってから池袋でも花街が認可されるのだが、ほとんど話題になることもない小さな花街であった。

太平洋戦争になって、練馬や埼玉に米や野菜の買い出しに行く人が激増したのが池袋発展のきっかけである。また、疎開によって、西武線、東武線沿線の住民が増えて、乗降客が激増していく。

戦後は、池袋の西口にも東口にも闇市のバラックが並び、街娼も出没。なにぶんにも戦前は何もなかった場所のため、赤線もなかったのだが、金を出せば二階や連れ込み旅館で事をいたすことのできる飲み屋がいっぱいある青線地帯が広がっていた。

しかし、昭和20年代前半までは、雑誌はやはり吉原、新宿、玉の井、洲崎、新小岩などの赤線を取り上げることが圧倒的に多く、池袋は蚊帳の外。また街娼の数も、有楽町や上野、新宿や渋谷には比較にならず少なく、錦糸町よりも少なかったため、この点でも影が薄い。メディアに取り上げられる機会は、赤線のあった三鷹とさして変わらないかもしれない(三鷹の赤線も地味で、ほとんど取り上げられることがなかった)。

この頃の池袋は風俗関係よりも、「アヴァンギャルドの街」として認知されていた。「アヴァンギャルド」は劇場の名前。戦後間もない昭和20年9月に、池袋の炭屋さんが「池袋小劇場」をオープンし、寄席を始めた。翌年10月「アヴァンギャルド劇場」として再スタート。はっきりとはわからないが、今のサンシャイン通り周辺にあった模様。

「東京で一番小さな劇場」とされていたが、立ち見で突っ込めば450人入れたというのだから、立派なもんだ。「肉体の門」を上演して当てた空気座に所属していた北里俊夫らが演出を担当し、江戸川乱歩もこの劇場の常連客だった。

 

 

暴力飲み屋の街として認知

 

vivanon_sentenceしかし、昭和20年代後半からは「暴力飲み屋」の街として、俄然雑誌に取り上げられる機会が増えてくる。ブクロは独自の地位を築きつつあったのだ。

その様子が「内外特報」(睦書房)昭和28年8月下旬号に出ている。昭和30年前後にブームになった週刊誌スタイルの実話雑誌の走りのような雑誌である。昭和23年に創刊された「人情講談」(当時はサンライズ書房)の別冊として昭和24年に出された「読切ロマンス」という雑誌があって、その別冊として出された「東京生活」という雑誌の増刊が「内外特報」(わかりにくくてすいません)。

表紙に記載がないが、「内外特報」の創刊号がこの8月下旬号。この巻頭に出ているのが「盛り場探訪 淫蕩の花ひらく池袋」という記事。

これによると、池袋では街娼と青線飲み屋の客引きが活躍。さらには麻薬密売団やヤミの堕胎医の話も紹介されていて、あんまり近寄りたくない街である。

「暴力飲み屋」の女たちが客から金を吸い上げる方法も巧妙である。まずは客引きの女たちが色気混じりで飲み屋に男たちを連れてくる。てっきり客はこの女たちが相手にしてくれると思ったら、彼女らは客引き専門。今の韓国エステでも使われる手法である。

しょうがねえやと腹を据えると、女は注文する前に高いビールの栓を勝手に抜いてしまう。しかし、ふと見ればママはなかなかの女。ママは客に別の場所に行くことを誘い、当然客は承諾。

 

話がきまると、すぐに別の女が現れる。その女からさらに別の女に引渡されて、迷路さながらに引きまわされた末、やっと目的の場所にたどりつく。

 

またも入れ替わり。今も一部ソープ店で行われている「すげ替え」「チェンジ」と呼ばれる手法の原型とも言える。

 

 

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