松沢呉一のビバノン・ライフ

反読書の姿勢で本を読む—本にまつわる権威と幻想[8]-(松沢呉一)

「Wikipedia読書」のススメ—本にまつわる権威と幻想[7]」の続きです。

 

 

 

本を読むことの満足感にまとわりつく権威

 

vivanon_sentence印刷物は書かれた順番に最初から最後まで読むのが一般的です。本というブツもそういう作りになっていて、それがもっとも「正しい読み方」として著者や出版社が提示しているわけで、多くの場合、その読み方に従う。何も間違っておらず、とくに小説ではそう読まないとワケがわからないことになります。

しかし、「Wikipedia読書」は自分で読み方を選択し、読み方を作り出していくことになります。これをやることによって、自分の関心がどこにあるのかわかりますし、考えながら読むことにもなります。

現実に私はナチスについては頻繁に「Wikipedia読書」をやってました。日本語版だと出ていないことが多いので、おもに英語版や独語版、時にポーランド語版や仏語版を自動翻訳で読みました。

Wikipedia内で留まるわけでははなく、Wikipediaに記載された参照元を辿ったり、人名や地名を新たに検索したりといった作業を含めてのことですが、拠点はWikipediaです。

しかし、この「Wikipedia読書」はある人々にとっては魅力がありません。本という権威に基づく満足感がないのだと思います。誰でもアクセスができるタダのメディアです。対して本は「買う」というところから始まるため、ハードルが高く、そのハードルを乗り越えて入手して、数時間かけて読むことで権威を消化します。

読まずに「こんな本を読もうとしている」とアピールすることで満足して終わる人もいるでしょうが、読んだ方がより満足度は高い。分厚い本を読み終わった時の充実感たるや。

これが本を読むことの大きな動機にもなっているわけですから、これ自体、悪いことではありません。しかし、このことが、「本を読む」という行為を狭めていることがあります。

※Jean Honoré Fragonard「Young Girl Reading」 ナショナル・ギャラリー・オブ・アート( National Gallery of Art)より

 

 

本の読み方の変化

 

vivanon_sentence私自身、昔の読み方に比べると、今現在の本の読み方は全然違う。

20代までは読んだ本のリストを作ってました。何をいつ読んだか忘れないようにする意味合いもあるのですが、現実にはそんなことが必要になることはありません。リストを作っていても、前に読んだ本をまた読み始めて、「あ、これ読んだ」と気づくことがありましたし。

「これから読む予定の本」もリストアップして、それを順番にこなしていく。そういったリストを作ること自体が楽しかったのですが、この楽しさは「これだけの本を読んだぞ」「これから読むぞ」という満足感に裏打ちされていて、さして読み込んでもいないのに、数が目的化していました。

それが今はほとんどない。何冊読んだか気にすることもない。

本のタイプによりますが、ナチス関連の本であればわからない点をネットで検索しながら読み、話の流れが見えなくなった時は最初から読み直すこともあります。すでに読んでいるので、理解が早い。

ナチス以外でもそうですが、登場人物が多いとリストにする。

こんなことをしているので数はこなせないですが、はっきり理解度は比較にならず高くなってます。「こなす読書」だったら1日で読めるものが1週間かかったりしますが、なんの問題もない。

 

 

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