松沢呉一のビバノン・ライフ

KABA.ちゃんがテレビで扱いにくくなった理由—メキシコのホモフォビアと日本のホモフォビア[4]-(松沢呉一)

オネエはただ笑われるだけの存在か?—メキシコのホモフォビアと日本のホモフォビア[3]」の続きです。

 

 

KABA.ちゃんの場合

 

vivanon_sentence最近は「テレビに出られるのはオネエだけ、笑われる存在でしかない」と批判的に語る人たちがいます。この論は正しい部分もありそうですが、今まで書いてきたことを踏まえると、そう単純な話ではない。

「性的対象として見られる人は、同性愛者であることを言えないだけで多数出ている」というのが現実であり、これは差別の文脈とはまた別の要因が大きいかと思います。「アイドル扱いの人たちは下半身の活動を伏せる」という話と同類。

AERA.dot」では、どうやらオネエ扱いの否定という視点で作られた特集「おネエしかいらない」に掲載されたKABA.ちゃんのインタビューが読めます。

おそらくこのインタビューでは、「オネエ扱いは苦痛だった」といった言葉を引っ張り出そうとしたと読み取れますが、KABA.ちゃんはそこには乗っておらず、「この世界にいるとオネエでもそうでない人でもいじられるのが自然な流れ」と言ってます。

その通りです。

テレビに出る人たちは歌や演技、ダンスなどの芸に秀でていること、アナウンサーのように、しゃべりに秀でていること、医師や弁護士、大学の教員などの箔が伴った発言ができることといった条件以外では、「笑いをとれること」「面白いことを言えること」です。とくにバラエティ枠ではそういうもんでしょ。

私だっていくつかの深夜番組でレギュラー出演していたことがありますが、笑いをとろうとしてましたよ。

オネエはそれ自体が芸であるとも言えます。やったところで受けない人もいますから、これは才能のひとつ。その芸のある人がテレビに出ています。

オネエがテレビで重用されるはお笑い芸人が重用されるのと同じであり、オネエは笑いをとりやすいのは事実として、笑いをとれるキャラの人がオネエを選択しているとも言えます。

笑いをとるからといって、存在が笑われているのではないのだし、自身を落として笑いをとりにいくところがあったとしても、芸能の世界では価値を逆転させるところがあって、笑われながら存在を認めさせる。異端扱いではあり続けているかもしれないけれど、世界の外にいるから言いたいことを言えて、その言葉がありがたがられる。芸人というのはそういうもの。

これはオネエの特性ではなく、特別に歌や演技などが秀でているわけではなく、肩書きがあるわけではにない人間がバラエティ枠に出る以上そうなることをKABA.ちゃんは指摘していますから、ここでは特集の意図に反していそうです。

KABA.ちゃんの場合は元アイドルユニットdosのメンバーであり、ダンスや振り付けが秀でているという前提もあったわけですが。上に書いた条件以外でテレビに出る人たちはおおむね「笑いをとれる人」であり、テレビは「面白い人しかいらない」のです。

 

 

なぜKABAちゃんは扱いにくくなったのか

 

vivanon_sentenceこの特集に合致しているかもしれない発言として「女になったら『扱いづらい』と言われた」との発言を大きく取り上げています。

YouTubeにKABA.ちゃんねるができていて、その中でこのことについてより詳しく語られています。

 

 

 

 

私はテレビをまったく観なくなっているため、性転換後のKABA.ちゃんが動くところを観たのはこれが初です。テレビをまだ観ていた時代、私はKABA.ちゃんが好きと公言し、プライドパレードに出てもらうように依頼してはどうかと言っていましたが、この動画は戸惑います。だって、見た目も声もまるっきり別人ですよ。

 

 

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