松沢呉一のビバノン・ライフ

やってはならない写真表現の扱い—ホロコースト・マスクの是非[中]-(松沢呉一)

著作者人格権の侵害? 歴史的事実の矮小化? プランデミック?—ホロコースト・マスクの是非[上]」の続きです。

 

 

写真が伝えるもの

 

vivanon_sentenceゲットーからアウシュヴィッツに連行されるところの写真を使ったマスクの問題点は、商品として販売していることにあるのかとも思ったのですが、では、ホロコーストの著作権切れの写真を集めて、ホロコーストを忘れないための写真集を販売したらどうでしょう。こういった出版はよくあって、確実にビジネスの側面があります。ただし、写真についての正確な背景を説明するのは必須であり、ただの素材集はまずいでしょう。

正確な解説がついている限りは反発はされない。私の中にも反発はない。それがビジネスだとしても、むしろ歓迎されましょう。

しかし、そこに加えられた写真のキャプションがデタラメだったら叩かれます。私も叩きます。

写真にも種類がさまざまありますが、歴史的な意味合いを持つ写真は、その歴史的経緯を間違って理解させてはいけないということなのだと思います。法ではないモラルの問題です。

戦場写真でも、それがどの戦争であるのかを問わず、人に訴えてくる写真は存在しますが、カメラマンは、今ここで起きていることを伝えようとしているのであって、「今ここ」はその時代であれば了解されています。しかし、時を経るとわからない人が出てきます。だから解説をつけるのであって、それがわからなくなることがまずいのではなかろうか。

対して絵画や彫刻は、歴史的背景など必要なく、それだけを切り取って鑑賞するものとして画家は描く。そこに大きな違いがあります。

Nadine Fresco著『On the Death of Jews: Photographs and History』 Amazonでざっと見ても、たんにホロコーストの写真を並べただけの写真集は見当たらず。解説を添えないとまずいという感覚が広くあるのだと思います。私がこういった写真集を出そうとしても間違いなくそうします。

 

 

歴史的写真では歴史の正確な理解ができる扱いが求められる

 

vivanon_sentence絵画や彫刻でも、時間経過とともに歴史的意味合いを持つことになりますので、画家や彫刻家の名前や制作年を書き添えますが、展覧会ならともかく、公民館や会議室にある絵画や彫刻に説明書きがなかったとしても非難されることはまずないし、公園のモニュメントに制作者名やタイトルが添えられていても、気にする人はほとんどいない。たまに私はチェックすることがありますが、ホントにたまにです。

その点、歴史的写真は歴史を切り離した鑑賞には向かない。「この構図は素晴らしい」といった見方もなされますが、そこに留まることはなく、そこに映し出された事物、現象を受け取るものであり、そこで受け取るものを誤解させるようなことをしてはならない。

という歴史的意味のある写真という表現物の特性と、あのマスクの用法はそぐわないのです。

いかに販売者が高邁な思いとともにマスクを作ったところで、マスクをした時にはその高邁な思いはついて来ない。ただの模様、ただのデザインになってしまう。

ウイルス対策の比喩としてホロコーストの写真を持ってくることは「歴史を矮小化する」という批判は意味をなさず、むしろホロコーストを語れない社会を生み出すだけです。それよりも、歴史が貼り付いている写真を解説もないただのデザインにすることによって、写真表現を矮小化することが問題のように私には思えます。

ウェブ・アーカイブよりホロコースト・マスクを販売していたサイト

 

 

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