松沢呉一のビバノン・ライフ

男と女とアヴちゃんがいる—メキシコのホモフォビアと日本のホモフォビア[5](最終回)-(松沢呉一)

KABA.ちゃんがテレビで扱いにくくなった理由—メキシコのホモフォビアと日本のホモフォビア[4]」の続きです。

 

 

なぜアヴちゃんは「ちゃん」づけか

 

vivanon_sentence前回取り上げたAERA.dot掲載の「KABA.ちゃん「女になったら『扱いづらい』って言われた」で一人ひとりの「個」が塗りつぶされてはいないか」と問いかけています。「なぜ個人が評価されず、LGBTというカテゴリーで見られるのか」ということだと思うのですが、その問いかけを代表する存在としてKABA.ちゃんを出してくるのは無理があります。KABA.ちゃんは好んで女というカテゴリーに入ろうとしているんですから、女というカテゴリーで見られることは望むところです。

それは本人の選択ですから、とやかく言う問題ではないのですが、テレビで扱いにくくなったことが不満であるなら、自分の作り方を間違っていると思います。

それに対して、個として見られようとしていて、現にそう見られているのが女王蜂アヴちゃんです。

 

 

 

 

それまでに女王蜂の存在は知ってましたが、アヴちゃんと会った人が「アヴちゃん」と呼んでいたのがこの呼称を耳にした最初だったと思います。親しくなったから「ちゃん」をつけていたのではないことがわかったのはそれからしばらくしてからです。

アヴちゃんもKABA.ちゃん同様、「ちゃん」込みの名前です。

不思議なのですよ。アヴちゃんは唯一無二の存在ですから、孤高の人なのに、なんだ、この親しみやすさ。路上で見かけたら気楽に声をかけてしまいそうな距離感がなぜかあるのです。どこにもいないのに、どこにでもいる存在。

少なくともオネエタレントだった頃はわかりやすい親しみのあったKABA.ちゃんと、わかりにくい親しみのアヴちゃん。

アヴちゃん自身、「男でも女でもない」とアピールしていることが、このスタンスとおそらく関係しています。

 

 

男じゃなくなることと女になることとはイコールではない

 

vivanon_sentence前々回、ピーコさんを最初に生で見たのは私が大学生の時に、ピーコさんが定期でやっていたトークイベントだったと書いて、あれこれ当時のことを思い出していたのですが、ちょうどこの頃、私は女子として女子と文通してました。

どこで知り合ったのか覚えていないのですが、よく文面に大島弓子のことを書いていたので、少女漫画雑誌「LaLa」の文通欄だったかもしれない。黒歴史。でもないけど、大学時代、私が「LaLa」を毎号読んでいたことはほとんど語ったことがないかも。

相手は私が男であることを知った上で、おねえさまとしてかわいい妹分の私の相手をしてくれていました。吉屋信子の世界です。1年くらいは文通していたんじゃなかろうか。

この頃から私は「女になりたい欲望」というより「男じゃなくなりたい欲望」があったのだと思います。女のフリをして文通したかったのではなく、男が女言葉で文通をしたかったのです。文通オネエ、文体オネエ。

オネエというカテゴリーではなく、「ジェンダー規範から逃れること」を実現しているのがアヴちゃんです。どっちつかず、あるいはどっちも持っていることは女王蜂の映像の方が見えやすいかもしれない。

無観客ライブより。

 

 

 

 

高くて低い、上品で下品、強くて弱い、攻撃的で内省的。陽気で陰気、剛胆で繊細、カッコよくてかわいい、新しいようで1970年代の場末感。

つっても、私は女王蜂をそんなには聴いてません。私の力量ではカラオケで絶対に歌えないですもん。でも、存在は気になる。「男でも女でもない私」のロールモデルです。

アヴちゃんの場合はあのルックスですから、どこの国の人かもわかりにくい。そういった規範から外れると自由になるってことだったりします。落ち着き悪くもあるのだけれど、足場のわからない強み。落ち着きの悪い存在でい続けることの意義。

そこから深い交流になることは稀ではあれ、銭湯では3分程度だったら親密に会話を交わしやすいのと同じ。路上や公園で声をかけて親密に立ち話になることがあるのと同じ。どこの誰かよくわからず、よって規範に則って少しずつ距離を縮める必要がなく、いきなり親密になる。あの感じです。

 

 

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