松沢呉一のビバノン・ライフ

ベルリン「エルドラド・クラブ」によってナチスの追手から逃れた—マルト・リシャール著『私は女スパイだった』[2]-(松沢呉一)

飛行家・スパイ・公娼廃止活動家の華々しき自伝—マルト・リシャール著『私は女スパイだった』[1]」の続きです。

 

 

 

あり得ない展開

 

vivanon_sentenceマルト・リシャールの自伝『私は女スパイだった』にはひっかかる記述がたびたび出てきます。第一次世界大戦時はそんなもんだと言われても、「ここは相当に誇張しているな」と感じた点があります。スパイをやっていたスペインから脱出する際の描写です。

マルト・リシャールはフランスからの指令が途絶えて、自身の計画を実行するために手紙を送っても一向に返事が届かないことに苛立ち、フォン・クローン男爵は妻が不在の間にマルト・リシャールと同棲することになります。スパイのために情婦になったとは言え、フォン・クローン男爵のことを彼女は嫌悪していますから、そのことのストレスも高まり、精神的にも不安定になっていきます。

ついには計画通り、単独で金庫の中身を盗み出してフランスに送り、フォン・クローン男爵に、自分はフランスのスパイであったことをバラし、ドイツ語がわからないふりをしていたのは、情報を得るための演技であり、ドイツ語をある程度理解できることをドイツ語で説明します。

これによって、やっと事態を飲み込んだフォン・クローン男爵は動転します。マルト・リシャールはフォン・クローン男爵に別れを告げてホテルに帰り、翌日、ドイツ大使館にフォン・クローン男爵は公費で自分を養っていたことを告発し、自分へのラブレターも証拠として提出してから彼女は込み入ったルートで鉄道でフランスに逃げます。

フォン・クローン男爵は逮捕され、護送される列車の中で自殺を遂げます。

彼女はフォン・クローン男爵に復讐したく、その計画は見事成功するのですが、やり方として最悪でしょ。スパイとしても失格、人としても失格です。物語としても無理がありすぎます。

フォン・クローン男爵がいかにショックだったとしても、なぜ彼女をそのまま帰したのか。その場は動揺してしまったのかもしれませんが、なぜ一晩動揺し続けたのか。

また、大使館に告発した段階で、ドイツの情報を知った人物として大使館は彼女を拘束するでしょ、普通。なのにそのまま彼女は大使館から帰っているんですよ。この時代はそんなもん。のわけがない。

「ここは創作だろ」と思いはしましたが、「盛り上げたくて、面白くしちゃったんだろうな」といった程度に思ってました。

なお、ネットで検索すると、ハンス・フォン・クローンという人物は実在していたようで、当時70歳だったという話も出てましたが、詳細は不明です。

※『私は女スパイだった』の表四。この写真はポストカードらしい。そのくらいに飛行士として人気

 

 

エルドラド・クラブの女装写真

 

vivanon_sentence第二次世界大戦時の記述で私が注目したのは以下のくだり。いろんな意味で注目です。

第二次世界大戦でナチスドイツがフランスに侵攻し、懸賞金つきでゲシュタポに追われているマルト・リシャールは変装し、名前も変えて妹のいるフランス北部の都市ナンシー(Nancy)に潜伏。妹は家に借家人を置いていて、その人物は以前ホテルの従業員で、ホテルはナチスに占領され、その時に将校が持っていた指令書を書き写した書類をマルト・リシャールに委ねます。

そのすぐあと追っ手が迫っていることを妹から知らされ、その書類やパリにいるユダヤ人救出のためのニセの身分証明書をカバンに詰め、カモフラージュのための新聞等の紙を詰めますが、鉄道はすでに監視されているようです。万事休す。

そこで知人に頼んでパリまで車で送ってもらうことになります。ナンシーを出るところでドイツ将校に停められ、「トゥル(Tours)まで同乗させろ」と命じられ、同乗させます。万事休す。ところが、この将校は気のいいオーストリア人で、3人で楽しく話をしながら車は進みます。

検問があって憲兵に車内を調べられ、マルト・リシャールのカバンのうちのひとつを開けられますが、そちらには彼女の服しか入っていない。もうひとつに手をかけます。万事休す。マルト・リシャールは、「それは将校のだ」と説明。同乗していた将校も話を合わせて無事通過。

しかし、これで将校は弱味を握ったと思ったか、態度が居丈高になり、将校はカバンの中身を気にし出し、しつこく中を見せろと言い出しました。万事休す。

 

 

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