松沢呉一のビバノン・ライフ

クオータ制の危険性を回避するには個人個人の意識を変えることが必須—ウガンダとチュニジアのクオータ制[5](最終回)-(松沢呉一)

拙速なクオータ制導入は失敗しやすい—ウガンダとチュニジアのクオータ制[4]」の続きです。

 

 

 

本質主義的クオータ制肯定論に対する普遍主義からの批判

 

vivanon_sentenceウガンダのクオータ制について書いたものを適当に読んでいたら、普遍主義の立場からクオータ制に潜む危険性を指摘するフェミニストによる、こんな言葉が出てきました。

 

一部の(クオータ制の)支持者は、女性の生来の傾向がより正直で、思いやりがあり、協力的で、平和的であるため、政体はより多くの女性議員から利益を得るだろうという本質主義的な議論さえします。この議論は多くの人に信じられているだけでなく、この一連の推論は一般大衆にとってより重要です。

 

 

これはEszter SolyomGender Quotas: Towards an Improved Democracy」に出ていたものです(以下、「Gender Quotas」)、米国の政治学者ジェーン・マンスブリッジ(Jane Mansbridge)からの引用であり、差異主義(ここでは本質主義)の立場からクオータ制を支持する人たちについて普遍主義の立場から批判したものです。

「Gender Quotas」は論文ではなく、学生が書いたエッセイのようですが、クオータ制への批判とその解消の可能性について説明しています。

「クオータ制を導入すれば政治がよくなり、社会がよくなる」と考えている人たちこそ、一歩先に進むために読んだ方がいいと推薦しておきます。私のように反対の立場からのものではなく、どちらかと言えば賛成する立場から問題点が整理されているので、とっつきやすいのではなかろうか。

その中で、この引用文は少なからぬ肯定論者が内包している問題点をあぶり出すものですが、他の引用文を見ても、ジェーン・マンスブリッジ自身、クオータ制自体を否定しているわけではないと思われます。

この引用文は私もさんざん罵倒してきた「好戦的である男たちが政治をやるから戦争が起きる。女は平和的なので争いを好まず、女が政治をやれば戦争にならない」といったことを平然と言うような人たちを指しています。

この人たちは、男と女は本質的に違うという考え方に基づいていて、政治に向かない女の議員数を増やすためには下駄を履かせるしかないということからクオータ制が出てきます。普遍主義の立場をとるフェミニストたちにとっては許し難い発想でありましょう。

 

 

女は女を背負わされる

 

vivanon_sentenceこの引用文にあるように、一般有権者にとってはさらに広くこういう考え方が見られます。

「女の候補者であれば、母性についての配慮ができるので、託児所を増やしてくれるに違いない」「女の候補者であれば、性風俗を規制してくれるに違いない」「女の候補者であれば汚職はしないに違いない」というジェンダーにまとわりつく印象で投票をします。

これについては以下の引用で指摘されています。

 

クオータ制がもたらす問題のひとつは、女性議員が女性に代わって行動する義務または期待をする「委任効果」を生み出す可能性があることです(Franceshet and Piscopo、2008)。

 

男の候補者には男というジェンダーに対する期待などほとんどないと言っていいのに対して(あの候補者は「男らしく決断をする」なんて考える人もいるかもしれないけれど)、女は女というジェンダーを背負わされるのです。

もし私が選挙に出るとして、「男のために当選してください」なんて言われたら、ぶち切れますよ。「知るかよ。男のためになることもやるかもしれないけれど、おまえみたいな男のために立候補したんじゃねえよ」と怒って票を減らします。

 

 

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