松沢呉一のビバノン・ライフ

独裁政権が倒れても民主主義がまったく機能しないハイチ—ポストコロナのプロテスト[123]-(松沢呉一)

血に塗れたハイチの60年—ポストコロナのプロテスト[122]」の続きです。

 

 

 

独裁政権崩壊後の混乱に次ぐ混乱

 

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ジャン=クロード・デュヴァリエ政権が倒れて、軍を中心とした国家評議会による暫定統治となり、陸軍大将のアンリ・ナンフィ(Henri Namphy)がその議長となります。

1987年11月に選挙が予定されていたのですが、兵士とトントン・マクートが投票のために並んでいた数十名の住民を射殺して選挙は中止となります。

軍は支配を維持するために、軍が容認した候補者を出して翌年1月に選挙が行なわれますが、反対候補は選挙をボイコットしたため、投票率は4パーセントに満たないまま、レスリー・マニガット(Leslie François Saint Roc Manigat)が大統領に選出されます。

しかし、レスリー・マニガットがアンリ・ナンフィを陸軍司令官から解任したため、4ヶ月後にアンリ・ナンフィによるクーデターによって倒され、再度アンリ・ナンフィが実権を得ます。

その8ヶ月後、ジャン=クロード・デュヴァリエ政権下で治安を担当していたプロスパー・アヴリル(Matthieu Prosper Avril)によってアンリ・ナフィは倒されて、以降、1990年までプロスパー・アヴリルが大統領に。

1990年、カトリックの司祭であるジャン=ベルトラン・アリスティド(Jean-Bertrand Aristide)が選挙で大統領に選ばれます。彼はラテンアメリカで浸透する解放の神学を支持。社会主義+キリスト教の思想であり、おそらくこの時にトントン・マクートは解体されたよう。

アリスティド政権は右派からは受け入れられず、翌年、陸軍将校のラウル・セドラ(Raoul Cédras)による軍事クーデターで倒されます。

ラウル・セドラは実権を握りながらも、自身が大統領になることは望まず、暫定の大統領として最高裁判所のジョセフ・ネレット(Joseph Nérette)が指名されます。

※G.グティエレス著『解放の神学

 

 

フラフ(FRAPH)の結成とラボトー虐殺

 

vivanon_sentenceこの頃、ハイチの進歩と発展の最前線(FRAPH/Front pour l’Avancementetle Progrès Haitien)が結成されています。このフラフはトントン・マクートの後継的極右武装集団で、創設者はエマニュエル・コンスタント(Emmanuel Constant)。なお力を持つ左派のアリスティド支持者を潰すためであり、またも米国が背後にいました。

フラフは1994年、アリスティド支持者を少なくとも20名以上殺害するラボトー虐殺(Massacre de Raboteau)を起こしています。

以下は2020年の裁判の様子。まだ裁判は続いているのです。

 

 

 

 

ジョセフ・ネレット暫定大統領は1994年に辞任し、続いて同じく最高裁判所のエミール・ジョナサン(Émile Jonassaint)が暫定大統領に就任。同年、米国の圧力により辞任し、ジャン=ベルトラン・アリスティドが大統領に復帰。

1996年の選挙ではルネ・プレヴァル(René Préval)が大統領に選出されます。1991年、アリスティド大統領の元で首相を務め、軍事クーデターとともに亡命していた人物です。彼は改革に着手し、軍やトントン・マクートによる人権侵害の調査も積極的に行います。この時に軍自体が廃止されたよう。

2000年の選挙ではジャン=ベルトラン・アリスティドが大統領に返り咲きます。それに反発する米国が後押しして元軍人らがまたもクーデターを起こし、アリスティドは南アに亡命し、2004年からに2006年まで、最高裁判所から、ボニフェス・アレクサンドル(Boniface Alexandre)が暫定大統領に。

 

 

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