トランスジェンダーに見る名前の強制性—男の名前・女の名前[16]-(松沢呉一)
「「男らしさ」「女らしさ」を名前が取り込んでいく仕組み—男の名前・女の名前[15]」の続きです。
「らしい名前」を見れば性別を想像することから人は逃れられない
「男らしくあって欲しい」「女らしくあって欲しい」と願う親が子どもに「らしい名前」をつけることの問題は、社会が名前によって「この人は男」「この人は女」と決定すること、それを前提として扱うことの問題であって、「名前に罪はなく、改善すべきは名前で性別を決定して、それに合った扱いをすること」ととも言えますが、名前を見てはっきりと、あるいはぼんやりと性別を仮想することからどれだけの人が逃れられるのかって話です。
ほとんどすべての人がここから逃れられない。なぜ逃れられないのかについては話が戻せなくなるので省略するとして、現実に権田原剛太郎(ごんだわらごうたろう)という名前を見て、女だと思う人や、性別のない個人としてしか認識しない人がどれだけいましょう。
その結果、女が男と間違えられる名前を持つことでの不都合やいじめられることを考えて、権田原さんちでは「苗字が硬いので、せめて女の子には女の子らしい名前を」と考えたりするわけです。権田原桜であれば間違えられない。漢字だとなお硬いので、「権田原さくら」あたりに落ち着く。
この時、親は社会に対して、「皆さん、うちの子を女として扱ってくださいね」とアピールをして娘を差し出しています。社会一般に「さくら」は女の名前という前提があることをなぞっているし、女の子は女の子らしく扱うことをなぞっているのです。
この集積が「名前で性別を決定し、その性別に沿った扱いをする」という社会のありようを支えています。
※2015年8月2日付「teenVOGUE」 トランスジェンダーたちの証言集。名前が持つ意味が浮き彫りになる内容です。名前を変更しなかった人もいますが、ほとんどの人は性別とともに名前を変更していて、それ以前から、名前の短縮、ニックネーム、別名を名乗ることで、性別を固定する名前のプレッシャーから逃れています。デッドネーム(旧名)がいかに苦痛であったのかがわかると同時に、名前がいかに性別を表示し、個人にそれを押しつけるものであるかもよくわかります。たいていの人はそれを感じないように自分を作ってきているだけです。
与えられた名前を肯定していくことで社会の視線を肯定する
このように名前はしばしば男女の別を明示し、その個人を規定します。「私は何者であるのか」が生まれた時に決定する。
男には男の名前を、女には女の名前をつけることが法で定められていた国、今も定められている国が少なくなくて、法律ではなくとも、ほとんどすべての国で習慣的にそうなっており、それがやっと一部ではあれ、大きく崩れてきているわけです。つい最近の話。
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