松沢呉一のビバノン・ライフ

フランクルの収容所体験を検証する—V.E.フランクル著『夜と霧』[4]-(松沢呉一)

売るための虚偽も厭わない版元と翻訳者—V.E.フランクル著『夜と霧』[3]」の続きです。

 

 

 

ヴィクトル・フランクルの記述はどこまで信用できるのか

 

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まだ終われません。

夜と霧』第一章「エピローグ」にこういう文章があります。

 

 

119104という「番号」をもったこの囚人が「心理学者」として強制収容所において体験したものをここに描こうとするとき、まず注意してほしいのは、彼が強制収容所においてもちろん「心理学者」として働いたわけでもなく、また(最後の数週間を除いては)医師としてすら活動していたわけでもないということである。そのことは、私の個人的な生活様式ではなく、通常の囚人が収容所で体験した生活様式の叙述が、ここでは問題なのであるだけに、一層重要なことなのである。そして私は自分が「通常の」囚人以上のものではなかったこと、119104号以外の何ものでもなかったことを、ささやかな誇りをもって述べたいと思う。大部分の時を私は土工として鉄道建設や道路構築に従事していた。二、三の医師の同僚が、少し暖房の入った仮小屋の診察室で紙屑の包帯をつくる幸運をもっていた間に、私は、たとえばたった独りである道路の下水溝のトンネルをつくっていた。そのことも私にとって重要でないわけではなかった。すなわち私はこの私の「仕事」が認められて一九四四年のクリスマスの直前に一枚の所謂賞状を受けたのだった。それはわれわれが労働奴隷として収容所から文字どおり売られていた建設会社(会社は囚人の一定額日当を収容所当局に払わねばならなかった)から受けたものであった。それは一枚当り五〇ペニッヒに値し、大抵は数週間後に収容所で煙草六本で支払われた(あるいは無効とせられることもあった)。ところで今や私は十二本の煙草の価値をもっているのである。煙草十二本はスープ十二杯を意味し、そしてしばしば、十二杯のスープは餓死することに対して、さしあたり二週間分の生命の救いを意味したのである。

 

 

この話はまだまだ続きますが、この辺で。

医師は収容所でつねに必要とされていました。この文章を読めばわかるように、名だたるドイツ企業は強制収容所から供給される安い労働力を必要としていて、収容所に群がるように軍需工場や自動車工場が建てられていました。

その労働力として使えない子ども、老人、病人が次々と絶滅収容所送りとなって殺されていくわけですが、若くて壮健な人材が病気になった場合は、いわば修理をして再び労働力として利用する。そのための医者は必須でありましたし、何ぶんにも栄養が足りないために病気になりやすく、事故も多かったため、患者は多く、医師自身が過労で倒れていく状態が続き、つねに医師が求められていました。医師免許の確認もできないため、自己申告であり、偽医師もいたことが報告されています。

医師は医師で楽ではなかったわけですが、それでも特恵者との地位を与えられたことは、E.A.コーエンが『強制収容所における人間行動』で自分自身のこととして正直に記述していた通りです。

それでも食い物は十分ではなかったのですが、亡くなった収容者の配給や隠していたパンを掠め取ることもできましたし、この引用文にあるように、暖房のある部屋にいられ、狭い棚のようなベッドに寝ることも免れました。事故が多く、体力を奪われる肉体労働に従事しなくてもいい。当然、解放まで生き延びる率は高かったでしょう。

イェヒエル・デ・ヌール『痛ましきダニエラ』で、自身に重ねる存在としてハリーという人物を登場させていますが、ハリーは偽医師でした。イェヒエル・デ・ヌールも収容所で偽医師として生き延びたのではないかと私は見ています。

その点、フランクルは紛れもない医師だったにもかかわらず、おそらくは自己申告もせず、一般の収容者と同じく肉体労働をし、わずかなスープとパンで飢えを凌ぎ、その上労働者としての優秀さを評価されて生き延びたのです。

立派な人ですね。

立派だと感じるのはこれを事実としてとらえるからです。では、フランクルの書いていることはどこまで信用できるのでしょうか。

※本書には45点の図版が巻末に掲載されているのですが、その中でダッハウは2点のみ。この写真とこのキャプションでいったいダッハウの何がわかるのか。こういう写真を出してはいけないなんて言っているのではなくて、本書を読むのに役に立つ解説をしろってことです。

 

 

フランクルがアウシュヴィッツにいたのは選別のための3日のみ

 

vivanon_sentence夜と霧』を一読して疑問を抱いたのは、はて、フランクルはいつからいつまでアウシュヴィッツにいて、いつからダッハウのサテライトにいたのかってことでした。もう一度読み直したのですが、はっきりとしたことはわかりませんでした。

そもそもダッハウについても「あるバイエルンの収容所」など曖昧な書き方をしていて、どのサテライトキャンプか特定できないようにしています。

正確な記録を目的にした文章ではないにせよ、アウシュヴィッツについては明記しているのに、なぜダッハウについては曖昧なのだろう。

 

 

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