松沢呉一のビバノン・ライフ

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の主語—「は」と「が」の違い[下]-(松沢呉一)

文法と文学は別・論理と感動は別—「は」と「が」の違い[中]」の続きです。

この回は3年くらい前に書いてあったのたですが、これだけ書いて力尽きて本論の主語論まで至らず、そのまま公開してませんでした。「論理がいかに大事か」を説明する意味で公開しておきます。長いですが、分けると意味がわかりづらくなるので、一度に出します。

 

 

 

しょっぱなからつまづいた

 

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金谷武洋著『日本語は敬語があって主語がない-「地上の視点」の日本文化論』を読んで、文法としての主語論にはおおむね納得したのですが、サブタイトルにあるように、日本人の特性を「地上の視点」とする日本人論はいただけない。現にそうかもしれないとの感触は私にもあるのですが、そこに至る論理が粗雑すぎます。

冒頭でこんなエピソードが紹介されています。著者はNHK教育テレビで実験をしているのを見て衝撃を受けます。言語学者の池上嘉彦氏が、川端康成の『雪国』を取り上げて、サイデンステッカーによる、その冒頭の英訳を数名の英語話者に見せて、イメージした光景を絵にしてもらいます。

日本人のほとんどは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章を読んで、自身が列車に乗っている設定で、前方に光が見えてきて、トンネルを抜けると雪景色が広がっている光景をイメージするでしょう。私もそうです。

ところが、英語話者はトンネルから列車が出てくるところを俯瞰で見た絵を書くんだそうです。

英語は鳥の視点、日本語は地上の視点ということを象徴するエピソードです。「鳥瞰と虫瞰」「主観と客観」「一人称と三人称」と言い換えてもいいでしょう。

「ははあ」と私もこれを読んで納得しそうになったのですが、よくよく考えると、そう話は単純ではありません。

テレビなので、池上嘉彦氏の意図を簡略化していた可能性があって、「同じ文章を見せても、違う絵になる」という結果を導く実験なのではなく、主語を明示しない日本語の特性を表す表現が、別言語では別の捉えられ方をする実験だったのではなかろうか。

実験の不備か、テレビの取り上げ方の不備か、受け取った人(金谷武洋)の不備か、それを文章化した際の不備か、どれかわからないですが、これがこの本の日本人論の導入であり、根幹であり、ここから私はつまづいてしまいました。

同じ結論に行きつくとしても、過程はもっと丁寧にやらないと納得できない。

新書なのでしょうがないかとも思うのですが、私はその過程を丁寧に辿ってみました。

 

 

この翻訳文を観れば俯瞰になるのは当たり前

 

vivanon_sentenceサイデンステッカーの英訳は「The train came out of the long tunnel into the snow country」 です。主語がはっきりとトレインになっています。これを日本語にすると、「列車が長いトンネルを抜けて雪国にやってきた」になりますから、原文に比して、雪国側のトンネルの出口を眺める場所に視点がある方向にズレているのです。主語たる列車はどうしたって雪国側からの視点になる。

もう少し長く『雪国』の原文を見てみましょう。

 

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。

 

 

三人称の小説ですから、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の主語は「島村」であっても、「汽車」であってもおかしくはない。おかしくはないのだけれど、現に日本人が、汽車の中にいる人物の視点になっていることから、細かく言葉を補うと、「汽車がトンネルを抜けると、島村は雪国にいた」という視点の文章をここから引き出していることになりましょう。島村視点です。

対して「The train came out of the long tunnel into the snow country」 は雪国側のトンネル出口を眺める場所に視点が置かれています。これと原文は違っていて、原文をより日本語のニュアンスに近く訳すと、「The train came out of the long tunnel,Simamura had been in the snow country」みたいな文章になりましょう。英語としておかしい、美しくないといった指摘はここではなし。

この英訳の段階ですでに原文とは違っているのですから、この実験の趣旨は「なぜサイデンステッカーは一般の日本人とは違う視点で訳したのか」ということでなければならない。現にそう訳しているのですから、この実験は不要ですが。

※川端康成著/エドワード・サイデンステッカー訳『雪国―Snow Country

 

 

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