松沢呉一のビバノン・ライフ

著者の意図に反する解説—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編3]-(松沢呉一)

収容所の道徳的後退と後退した裁判・後退した出版—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編2]」の続きです。

 

 

なぜ人はかくも残酷になれるのか

 

vivanon_sentenceヴィクトル・フランクルは最終章で、「収容所の看視兵の心理」を取り上げており、「血も肉もある人間が他の人間に、多数の報告の示す如き残酷なことをするのがどうして可能であろうか?」と疑問を投げかけながら、「この問題に余り詳細に立ち入ることは避ける」として、この問題を考える際の要点、注意点を4点挙げるに留めています。

 

 

1)厳密な臨床的な意味での強度のサディストがいたということ

2)鋭い看視隊を編成する必要があった場合にサディストが求められたこと

3看視兵は多年、収容所におけるサディスト的なあらゆる行為を次々とみてきたので、すっかり無感覚になっていたこと

4)収容所の当局者の中には—いわば道徳的な意味で—、サボタージュをする者 (ナチスに対して)もいないわけではなかったこと

 

 

この4点目は、ナチスに反する行為をする親衛隊員なり看守なりがいたという意味であり、ここにもっとも力点があって、フランクルが体験した具体例も出しています。

 

 

たとえば私が最後にいた収容所(そこから私は解放された)の指令を例にとってみると、彼は親衛隊員であったが、解放後判明したところによれば(それについてはそれまで収容所の医師しかそれを知らなかったが)彼は自分のポケットから少なからざる金を出し、そっと町の薬局から囚人のための薬を買い入れさせていたのであった。一方、この収容所の囚人代表は(従って彼自身囚人であるが)収容所の親衛隊員全部を合わせたよりももっと厳しかった。彼は時と所を問わず囚人を蹴った。だが前述の指令は私の知っている限りでは一度でも「彼の」囚人に対して手をあげたことはなかった。

このことからわれわれは一つのことを悟るのである。すなわちある人間が収容所の看視兵に属しているからといって、また反対に囚人だからといって、その人間に関しては何も言われないということである。人間の善悪を人はあらゆる人間において発見しうるのである。従って人間の善意は全部からみれば罪の重いグループにも見出せるのである。その境界は入りまじっているのであり、従って一方が天使で一方が悪魔であると説明することはできないのである。それどころか看視兵として囚人に対して人間的であろうとして何らかの人格的道徳的な行為もあったのであり、他方では、彼自身の苦しみの仲間に不正を働く囚人の忌まわしい悪意もあったのである。(略)

これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは後者だけからなるグループは存しないのである。

 

それについてはそれまで収容所の医師しかそれを知らなかった」ってひでえ翻訳でしょ。

なにしろダメダメな「解説」で出鼻をくじかれたため、フランクルの本文もさほど丁寧に読んでおらず(このあともう一度読み直すしかなくなりましたが)、一読した段階では、フランクルはダッハウで解放されたと思っていました。しかし、ダッハウの司令官がこんな人物とは思えない。これはおそらくサテライトキャンプの司令官でしょう。

といった時のために「解説」では、フランクルがどこをいつどう移動したのかを日付とともに入れるとか、他に書くべきことがあるだろうに。

 

 

人間は両面を持つ

 

vivanon_sentence上の引用文で「略」とした部分にも善意の労働監督の例が出ており、このことを踏まえて強制収容所を語るべしと強調しています。

また、これとは違う文脈でも、フランクルが与えた精神分析的診断や治療法を恩義に感じてフランクルに便宜を図ってくれ、また、労働監督に対してフランクルを擁護してくれたカポ(本書では「カポー」)も登場します。このカポは元将校とあって、国軍で何かヘマをやらかしたか、上官に逆らったのだろうと推測できます。

解放後、人肉を食べて生き延びたカポと話したエピソードが出てきて、彼をフランクルは「仲間」と呼んでいるのですが、このカポのことではなかろうか。

また、労働監督の中にも同情心をもって収容者に接するのが複数いたことを記述しています。

これをもって、フランクルはそれらの人々を免罪しろと言っているのではありません。人間は、そして人間の集団はそれほど単純ではないと言っています。1点目にあるように、たしかにサディストと言っていい病的な人間もいるけれど、良心を失っていない人たちもナチスにはいて、そういう人たちでも条件が揃えば人を殺す現実を忘れてはならないと言っているのだと思います。

最初の段落と2番目の段落とは矛盾もあって、2番目の段落では、どんな集団にも善意の人と悪意の人がいるのと同時に、一人の人間の中にも善意と悪意がしばしば共存しているのだと読めますので、「善意の人/悪意の人」という二分法では割切れないはず。

 

 

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