松沢呉一のビバノン・ライフ

収容所の道徳的後退と後退した裁判・後退した出版—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編2]-(松沢呉一)

『夜と霧』にも読むべきところはある—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編1]」の続きです。

 

 

解放後に生ずる道徳的後退

 

vivanon_sentenceあれだけ求めていた自由を得ても、その実感がなく、喜びにならないのは強制収容所だからなのか、刑務所でも同様なのかわからないですが、自由というのは拘束されて初めて実感するものであり、自由を謳歌できている時にはその価値がわからないものかもしれない。

だから、ウイルスで自由をあっさり放棄するのですし、それが長引いた時に自由を求めて抵抗を始めるのだろうと思えます。アンチ・ロックダウン・プロテストは人間の自然な心理が生み出すものです。

拘禁による特殊な精神状態を修復していく過程で、今度は「道徳的健康」が損なわれることがある旨をフランクルは指摘していて、解放後、畑の中をズカズカと入り込んで作物を荒らす収容者に注意したところ、凄まれた体験について書いています。

この道徳的後退が、解放後に起きた収容者のグループ間抗争や殺人事件の説明にもなりそうです。もちろん、一部の人たちですが、あれだけナチスの暴力や殺人に苦しめられた人たちがなぜ暴力を行使して、収容者同士で殺し合いを殺してしまったのか。彼らが得た自由は暴力の自由であり、殺人の自由でした。

以下はダッハウ解放前の米軍と親衛隊との銃撃戦。主要部隊はもう逃げてますので、大半はあっさり降伏しますが、一部で銃撃が続きました。ダッハウの虐殺についての動画はまだ見たことがなく、この映像にも出てきませんが、この最後に収容者たちが親衛隊と思われる男に暴行しているところが出てきます。

 

 

 

道徳的に後退しなくても、これはやりましょうし、私もたぶんやりますけど、収容者同士でいがみあうことは理解しにくく、収容所の生活に耐えたのに、解放後に殺された人々は無念すぎます。これは条件が揃えば人は人を殺せることを示唆します。ドイツ人だけでなく、米人でも、ユダヤ人でも、日本人でも。

※上のSSはアランレネ監督「夜と霧」より

 

 

道徳的に後退していた裁判の証言

 

vivanon_sentenceこの道徳的後退期がどの程度続くのかわからないですが、人によっては裁判でウソの証言をすることの心理的障壁を取り除く効果になったかもしれない。

そうじゃなくても、収容所に入れられた体験から、あらゆる看守とカポに恨みを抱くのはおかしくはなく、ウソの証言をしたところで責められない。

一方で、もともと平気でウソをつける人々がいて、そうすることに自分に注目が集まることが快楽になる人たちもいます。これが収容者にもいて全然おかしくない。

だからその分、第三者は冷静な判断をしていかなければなりません。

夜と霧』の「解説」では、裁判で被告になったドイツ人たちが取り上げられていますが、収容者たちの証言にただの伝聞、勘違い、記憶違い、意図的な虚偽があった可能性はまるで見えてこない。

たとえば親衛隊であれば親衛隊内の地位によって責任が決定できますから、「職務だった」「抵抗できなかった」という言い分は通用せず、地位、立場によって死刑判決を出していいかと思います(微妙な点は残りますけど)。しかし、末端の看守、カポについてはそのような確定の仕方はできないため、証言で決定するしかない。

よってもとより不安定な判決にならざるを得ないわけですけど、その中でも比較的証言の信憑性が高い被告と、伝聞の積み重ねでしかなく、信憑性に疑問符のつく被告がいます。ヘレナ・コペルのような怪しい人物による証言が重視されてしまった人たちもいましたから、もっと裁判に時間をかけるべきだったとの思いが拭えません。

 

 

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